時代を超えたサイン


 最近、私の心に、小さな感動が走りぬけた。
そのことについて、書いてみようと思う。

 いきなりだが、大阪の戎橋のたもとに、大きなグリコのサインがある。
古めかしいマラソンのユニホームを着た男の人が、
今やゴールを切ろうとしている例のあれである。
 この間、中一、小五の娘二人といっしょに、そのサインの下を通りかかった。
私は娘たちに言った。
「あー、なつかし。あの看板、ママの小さいときから、ちっとも変わってへんわ」
 もう四十年も前のことになる。当時、あまり種類のなかったお菓子の中で、
特別光っていたグリコのキャラメル。
へしゃげたような楕円形のキャラメルが一粒ずつ、
ねじるように包まれていたっけ。
「マラソンおじさん」の刷り込まれた赤いグリコの箱とともに思い出す。
小学校の運動会が、一瞬頭をかすめたのは、
きっと、その時にも持たせてもらっていたのだろう。
わたしが想いにふけっているそばで、小五の娘が言った。
「カキのグリコーゲンを取り出して作ったアメやろ。知ってるわ」
 この小五の娘は、我が家では物知りで通っている。私が、
「そうやよ。栄養があるさかい一粒食べたら300メートルも走れるねん」
というと、娘が言った。
「あんねママ、それ、ほんまは、こういう話やねん」
「え、どんな?」と聞き返す私に」、娘はこう言った。
「どんなってね、グリコを発明した人の子ども、体が弱かったんやねん。
いつも病気がちで、学校かて、よう休んでたんやて。
心配したお父さんが、いろいろ試したところ、
カキの中のグリコーゲンがよう効くいうて、
それを食べさせようて思たんやて」
「ふーん……」
「ところが苦うて食べにくいねん。お砂糖入れて煮詰めてアメにしたら、
子どもが喜んで食べて、すっかり元気になったんやて」
「ふーん、そうやったん」と、感心していつ私に、中二の娘も、
「私も知ってるわ。いつか本で読んだわ」と言った。
「へえー、二人とも知ってたんや」
「有名な話やん、常識、常識」と異口同音に言った。
小五の娘の話は、まだまだ続く。
「そのアメを売り出すことになって、何かマークを決めようと思ったんやて。
よう覚えてへんけど、たしか、象とかペンギンとかいろいろ候補があったけれど、
どんなときが一番うれしかったか、その子にきいたら、
『元気になって、走りで一等になったときが一番うれしかった』
というたから、あのマークに決まったんや」
「ふーん、知らんかったわ」
 私は、ますます感心した。
 グリコとのつきあいは、娘たちより私のほうがうんと古い。
おやつのない時代にお世話になったせいか、
グリコのサインをみただけで、なつかしさで胸がジーンとくるほどなのに、
そんなエピソードがあったなんて、ちっとも知らなかった。
それに対し、お菓子の洪水の中で育った娘たちは、
特別グリコのお世話になったわけではないのだが、エピソードでつながっていたのだ。
「それにしても、あのユニホームが、ちょっと古くさいね」
というと、いつもは、「あの服ダサイ」とか「かっこ悪い」とか批判的な中一の娘が、
「昔はあーやったんやから、かまへんのとちがうん」
と好意的な意見をいった。
そのとき私は、娘たちの心の中で、グリコに対する愛情が育っていることを感じた。
「グリコのおじさん」のサインは、私の世代だけのものと思っていたので、
最近の斬新なサインの中でグリコのサインを見るにつけ、
時代遅れのような、外し忘れられているよな、そんな感じがしていた。
しかし、それは違っていた。
グリコのサインは、時代を超えて存在していたのだ。
若い世代は若い世代の感覚で「グリコのおじさん」のサインを、
しっかり受け止めていたのだ。
それがわかったとき、私の心に小さな感動が走り抜けたのだった。
 そして、そのとき改めて、グリコは、私と娘たちにとって共通のものとなった。
心斎橋を歩きながら、私はグリコに対する熱い思いを、
娘たちにゆっくり話してきかせた。
 娘たちは、これからグリコのサインを見るたびに、
私のグリコに対する思いをいっしょに思い出してくれるだろう。
 いつまでも、戎橋のたもとに残しておいてほしいと思ったとき、グリコのサインは、
私にとって、もはや広告と言う域を越えて、
もっと大きな価値のあるものになっていたのだった。

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