い・の・ち


おじいちゃんが救急車で病院に運ばれて、意識不明のまま二週間がたった。
パートの仕事を休んで付き添っていたお母さんが、
「これ以上休むと首になる」とわめきだした。
お父さんは黙っている。こんなときでも、会社のことしか考えてないのかも。
「明日の土曜日は学校が休みなんだから、勇樹、かわりに病院にいってくれない?」
お母さんがぼくにいった。
「えっ、そ、そんなの無理だよ」
心臓が、やたらがくがくしてきた。
「完全看護なんだから、勇樹でも大丈夫よ。着替えを届けて、
おじいちゃんの様子を見てきてくれればいいんだから。おねがい」
白状すると、ぼくは病院が怖い。
患者さんたちの(本当は悪い病気にかかっているのかもしれない)
という不安な気持が、灰色の重い空気になって凍っている病院の廊下。
深く息を吸い込めば、たちまち引き込まれていっしょに固まってしまいそうになる。
ぼくはお兄ちゃんを見た。受験というだけで何でもパスお兄ちゃんの、
(おれは関係ない)というしれっとした顔がにくらしい。
こういうときの結果は、いつも決まっている。
やっぱり、ぼくが病院行きをおしつけられてしまった。

病院に行く川沿いには、車の修理工場がいくつも並んでいて、
廃車が山のように積み上げられている。
めちゃめちゃにつぶれている車もあるけれど、大部分はドアがへこんでいたり、
バンパーがひんまがっていたりしているだけで、
直せばじゅうぶん走れそうな車ばかりだ。
フロントガラスに細かいヒビが入っているだけの赤いスポーツカーは、
まだまだ走りたがっているように見える。
車をゴミにしてしまう大人に、ぼくは絶対ならない。
着替えの入った包みを抱きしめると、
空き缶やペットボトルが投げ捨てられている川に沿って、ぼくは病院へと急いだ。
病院のドアを押す。とたんにあの灰色の空気がおそいかかってきて、
思わず息をつめた。
三階にある集中治療室で、おじいちゃんは眠っている。
おそるそるドアをあける。
点滴などの管が生き物のように何本もくねくねぶらさがっていた。
おじいちゃんは、のどをゼロゼロ鳴らして苦しそうだ。
だいじょうぶかな、おじいちゃん?
手をにぎってみる。反応がない。ゼロゼロという音だけが生きている証だ。
タンがひっかかるのだろう。時々苦しそうにむせかえってくる。
ぼくは心配になってきて、看護婦さんを呼びに行った。
かけつけた看護婦さんは、いっしょに来た見習看護婦さんに、
「やってみる?」といって、
殺虫剤をまくような器具を渡した。見習いさんは不安な顔をしながら、
ゴム管をおじちゃんののどの奥につっこんだ。タンをとるらしい。
おじいちゃんの体が、ぴくっとはねあがった。ぼくは、身をすくめた。
看護婦さんは、いきなりおじちゃんの寝巻きのすそをめくった。
尿管に管をつっこんで、おしっこをとる練習をするらしい。ぼくは目をそむけた。
うまくいかないのか、ふたりはくすっと笑った。
「なれないから、しかたがないわね」
おじちゃんの手も足も点滴の針がささったまま、青黒くなっている。
ぼくには、それが、拷問のように見えた。
「おじいちゃん、元のようになるの?」
看護婦さんは首をかしげると、「お年だからね」といった。
治らないのに、どうしてこんな治療をしなけれならないのだろう。
意識がないからって、おじいちゃんがかわいそうだよ。
ぼくは、ここにくる途中、山積みにされていた車を思った。
(修理してくれ、そうすれば、まだまだ走れる)
そう、自分で訴えることができない車たち。
(治療はやめてくれ、もうじゅうぶんだ)
叫びたくても叫べないおじいちゃん。そのどちらも、
同じぐらいかわいそうだと思った。
ぼくは、体も心もどっぷり灰色になって、ゆううつな気持で病院を出た。

「お願い、おじいちゃんのこと、なんとかしてあげてよ。
あれでは、おじいちゃんがかわいそうだよ」
その夜、ぼくはお父さんに訴えた。
「かわいそうたって、治療しなくっちゃ死んでしまうだろ?」
「あ、そう。お父さんはいいんだね。自分が望んでもいないのに、
治療だといわれて痛い目にあわされたり、恥ずかしい目にあわされても。
ぼくは、絶対いやだからね。もう助からないってわかっているのに、
実験されるのはごめんだからね」
「尊厳死……か」
延命よりも人間性を尊ぶことを、そういうのだそうだ。
「おじいちゃんは、自分でいやだといえないんだよ。お父さんが代わりに
いってあげてよ。助からないんだったら、あんなことはやめるように。
自分の親なんでしょ」
ぼくが泣き出したので、お父さんは、あした、おじいちゃんの様子を見にいくと、
約束してくれた。

お母さんが夏服を出して、整理している。
お兄ちゃんの小さくなった服は、ぼくに下がってくる。
ぼくの小さくなった服は、いとこにまわる。去年ぼくのお気に入りだったTシャツを、
お母さんは脇によけた。
「どうするの、それ?」
「どうするって、廃品回収にだすの。こんなにシミはついていては、
だれにもあげられないし」
「つまり、ごみってこと?」
「ごみじゃないわ。廃品回収に出したぼろは、切り取って車を磨く布になるのよ」
ぼくはTシャツを広げた。胸のあたりに広がっているシミは、
ポピーがぼくにとびついたひょうしに……。
ポピーはぼくたち一家がひきとった老いた盲導犬だった。
視覚障害者を助けるという気の休まらない仕事を終えた老犬に、
ゆったりとした過ごさせるのがぼくたちの役目だった。
ポピーを引き取ろうといったのは、おじいちゃんだった。おじちゃんは、ポピーを
べたべたに甘やかした。厳しい訓練の末、身につけたしつけをあっという間に
忘れてしまったポピーは、ぼくが紅茶を飲んでいるときにとびついてきたんだ。
そのポピーは、半年前、おじいちゃんに抱かれて死んだ。
「ごくろうさんだったねポピー。えらかったね。よしよし、がんばったね……」
おじいちゃんは、いつまでもポピーをさすっていた。
ぼくは、思い出のしみこんだTシャツをだきしめた。
「そんなに気に入っているんだったら、とっておいたら」
お母さんが笑った。
「いいよ、もういらない」
ぼくのお気に入りのTシャツだもの、どんな車だってピカピカにするにちがいない。
(がんばれよ)
ぼくは、Tシャツを元に戻した。

病院から帰ってきたお父さんは、おじいちゃんを退院させることにしたといった。
「生命維持装置を外し、治療もしないということは、おじいちゃんは、自分の持っている
生命力だけで生き抜くということだ。命ある間、みんなで看てあげよう」
お父さんは、ぼくを引き寄せ、頭をなでた。泣いているんだとぼくは感じた。
夕方、おじいちゃんは家に帰ってきた。何本もの管から解放されて
自分の布団に寝かされたおじいちゃんは、のびのびと気持よさそうに見えた。
朝と夕方、近所のお医者さんが往診に来て、タンを取り、栄養注射をしていく。
おじいちゃんは、いつ見ても眠っていた。

その日、ぼくとお兄ちゃんが学校にいったあと、お母さんは洗濯物を干していた。
お母さんがパートに出かける日は、おじいちゃんの妹である塩田のおばあちゃんが、
留守番に来てくれることになっていた。
(お昼には、あれを食べてもらって、緊急連絡の場合は……)
お母さんは、洗濯を干しながら、頭の中で塩田のおばあちゃんに伝えることを、
あれこれ考えていたそうだ。その間に、おじいちゃんの命はつきた。
ぼくは、息苦しくなった。「退院させてあげて」といわなければ、
おじいちゃんは、もっと生きられたかもしれない。
泣いていると、塩田のおばあちゃんがぼくの頭をなでてくれた。
「勇樹ちゃん、ありがとうね。保ちゃんを退院させてくれて。
おかげで、大好きな家で死ぬことができたもの」
かけつけた塩田のおじいちゃんもうなずいた。
「急に死んだら家族がつらい。かといって長患いされたら、もっとつらい。
ある程度看病してもらって、頃見て逝く。これそこ大往生っていうもんだよ。
保さんは立派やった。あやかりたいもんや」
八十年前、「立派な男のお子さんです」といわれてこの世に生まれたおじいちゃんは、
「立派な死に方だ」といわれて、一生を終わった。
ぼくは、涙をぬぐったその手でおじいちゃんの頬をなでた。そして、
おじいちゃんがポピーにいったように、
(えらかったね、よくがんばったね)と心の中でくりかえした。