歌の虫干し   おじいちゃんの巻

            
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 幼い頃、明治8年生まれのおじいちゃんのあぐらの中できいた歌の数々。はっきり覚えているものもあれば、うら覚えのものもあります。もしかしたら、もう、わたししか知らない遠い日の歌たち。
 だけど、もし、日本のどこかで、だれかが歌っていてくれたとしたら……。
「あ、この歌知っている!」 と思う人がいたとしたら、こんなうれしいことはないと思いつつ、歌の虫干しをすることにしました。


                        

とんとんとんとん名古屋の城は 高い城で
一段上がり 二段上がり 三段目のお座敷見れば
よいよい良い子が三人ござる
一で良いのは糸屋の娘
二で良いのは人形屋の娘
三で良いのは酒屋娘
酒屋娘は器量がようて
京で一番
大阪で二番
嵯峨で三番
吉野で四番
御所で五番の姉さん見れば
立てば芍薬

座れば牡丹
歩く姿が百合の花


 「としやん」
  おじいちゃんは、俊子という名前のわたしをそう呼んでいました。
 「これを歌いながら手まりをつくと、たーんとつけるんやで」
  たーんと、とは、いっぱいのことです。あぐらの中で振り返ると、しわしわののどに向かって、ききました。
 「たーんとて、なんぼぐらい?」
 「そうやな、百ぐらいかな」
  ずっと、そう信じていました。つい最近、指を折りながら歌ってみたら、どうやら、まりは、120回はつけそうです。生きていたら、おじいちゃんはこういうでしょう。
 「たーんとは、たんとや」
  あの頃、人は、みんな大らかだったような気がします。思い出の中のおじいちゃんは、「だんない、だんない(心配せんでもええ)」といって、いつもゆったり笑っています。
 


うちの裏の千松は
八つで八幡に参られて
八幡の若い衆に誘われて
手には二本の矢持って
足には紅梅足袋はいて
紅梅山から火がついて
消しても消しても青松で
松屋のお門で松三本
竹屋のお門で竹三本
もう一本太竹を(細竹の時もある)
手にも足にもあわいで
大きな川にはめよか
小さい川にはめよか
やっぱり大きい川(小さい川のときもある)に
どぶどぶどぶ……


最後は、「どぶどぶん」といいながら、膝の上から揺すり落とされる。それがおもしろくって何回も歌ってとせがんだものです。「忙しいからあとで」などと、いちども断わられたことがありませんでした。




城の番場で 日和がようて
合羽屋が 合羽干す
にわかに天狗風
合羽舞い上がる
合羽屋おやじは うろたえ騒いで
堀にあがる
冷たいわいな
上げておくれ
おおきにはばかりさん

一里二里なら
伝馬(船)で通う
五里と隔てりゃ
風だよ〜



一生仕事につかなかった祖父は、若いころから壮年期にかけてはお座敷遊びに明け暮れていた、ときいています。これは、お座敷歌の一つのようです。幼い頃、家に呉服屋のおかみさんが来て、宴会芸にと教わっていたのを覚えています。こっけいな踊りがついていて、実は、見よう見真似で、わたしも踊れるのです。

 藤山寛美さんがまだ健在だった頃、テレビで何の気なしに新喜劇を見ていると、なんと、お座敷場面で、この歌を歌いながら寛美さんが踊っているではありませんか(振りは少し違っていましたが)。思わず居ずまいを正してしまいました。祖父以外の人の口から、この歌を聞いたのは、後にも先にもこのとき一回きり。しかも、祖父の没後、四十年近くも経っていたのですから、祖父に再会したような不思議な感じがしました。




昔 丹波の大江山に
鬼ども多くこもりいて
都に降りて人を食い

金や宝を奪いける


        (ここからはべつの歌)
……(前半は不確か)
後なる鬼べのいうことにゃ
ふんどし
忘れて叱られた
よいよいよいの よいよいよい



 おじいちゃんのあぐらの中で、昔話を聞く。それは、ラジオもテレビもない時代には、とても楽しいひと時でした。おじいちゃんのお話は、いつも決まって「ぶんぶくちゃがま」か「酒呑童子」。それを繰り返し、繰り返し話してくれるわけですが、少しもあきませんでした。そのときの声色や仕草で、お話は、いつも初めて聞くような新鮮さがあったからです。それが、「語り聞かせ」のいいところなのでしょう。

 上の歌は「酒呑童子」のお話のついでに歌ってくれた歌です。鬼退治をしたという「渡辺の綱」の謡曲を謡ってくれたこともありましたが、これは、振り絞るような声が苦しそうで、あぐらから抜け出したものです。
 戦後、家財を売り食いして何もかもなくしたにもかかわらず、「渡辺の綱」の謡曲のレコードは、風呂敷包みに結わえられたまま、今も私の手元に残っています。




一つ ひよこが 飯(まま)食うて たいらく ないない
二つ 舟には 船頭さんが たいらく ないない
三つ 店には おもちゃが きらきら
四つ 横浜 異人さんが たいらく ないない
五つ 医者さんが 薬箱 たいらく ないない
六つ 昔は 鎧 兜で たいらく ないない
七つ 泣きべそ ひねりもち たいたく ないない
八つ 山には こんこんさんが たいらく ないない
九つ 乞食が おわんもって たいらく ないない
十で 殿様 おんまに乗って たいらく ないない
……
二十二階から、おばけがひょろひょろ


これは、身振り手振りがついている。それは、しっかり覚えているが、十一から十九までの歌詞が思い出せない。たしか、巡査さんやら産婆さんやらが出てきたように思うが、忘れてしまった。「たいらくないない」とは、単に囃子言葉ではなく、意味があるように思う。



向こう横丁のお稲荷さんへ
さっと拝んでお仙の茶屋へ
腰をかけたら渋茶をだした
渋茶 よこよこ横目で見たなら
米のだんごか 土のだんごか
おだんごだーんご
(ちょっと最後は、あやふやです)

京都の今宮神社の境内にある「あぶり餅」屋ですが、「いち和」と「かざりや」の二軒の茶店が、派手な客引き合戦をしています。だんごよりそちらのほうが名物といっては失礼ですが、向かい合っている茶店の間を通りながら、どちらかに決めるのには、かなりの勇気がいります。「♪ こっちのだんごか、そっちのだんごか、おだんご屋こわーい」ということに、あいなります。


男 高山彦九郎
京の三条の橋の上
遥か皇居を伏し拝み
落ちる涙は 鴨の水


つい先日、三条京阪の脇で見つけた銅像は、高山彦九郎の像。彦九郎といえば……。五十年もの年月を飛び越えて、おじいさんから教わった言葉が、口をついて出た。記憶の不思議さを思わずにいられなかった。「高山彦九郎、何で泣いてはるの?」。そうきいたわたしに、おじいちゃんは、「京の町が荒れ果ててしもて、そんで悲しんではるんや」といっていました。五十数年たった今、思い出したついでに、高山彦九郎を検索してみました。興味のある方はここをクリックしてください。


なかきよのとおのねふりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな
(永き世の 唐のねふりのみな目ざめ 波乗り船の音の良きかな)


歌というより、元旦の晩、眠りにつく前に、祖父がとなえてくれたいい初夢を
みるおまじない。上から読んでも下からよんでも同じという、あれである。
宝船に七福神が乗っている和紙に描かれた絵を,枕の下に入れてくれたことも
なつかしい思い出。それでいい夢を見たかというと、子どものことだ。
翌朝は、そんなことなど覚えていない。眠りにつくまでの儀式のようなものだった。



とうどのとりとにほんのとりとわたらぬさきにななぐさなずな
(唐土の鶏と日本の鶏と渡らぬ先に七草なずな)


一月は七日の朝、七草がゆに入れる七草を刻みながら、三回繰り返して歌う。
三回どころか、わたしがせがむので繰り返し歌ってくれたのは、祖父。きっと、
あぐらの中できいていたのだろう。2003年我が家の七草がゆは、祖父もびっくりの
かゆ種だった。「草もち(よもぎ)、ダイコン、ゆりね、ほうれんそう、ざー菜、白菜、
香菜」。それにお米は粟、稗、麦などの入った雑穀。まるで薬膳がゆを食べているよ
うで、体にすこぶるいい感じがした。



十日戎の売り物は、
金袋に 取り鉢 銭が升(銭が増す) 小判に たて箱 たて烏帽子
取り出す才槌 黄金の槌 お笹をかたげて 千鳥足


これは、元芸者だったおばあちゃん(祖父の再再婚相手)が、三味線弾きながら唄っていた。粋な、鍛えられたいい唄声だった。おばあちゃんがのど自慢に出た日のことをおぼえている。母と放送局までついていった。二位だった。司会者が、「賞金はどうされますか」ときいた。恒例として出演者は、「○○を買います」とスポンサー会社の商品名をいうことになっていた。おばあちゃんは、「家で、はげちゃびんが待ってますねん」といった。「おやおや」と司会はいったまま、おしだまってしまった。帰り道、わたしはおばあちゃんから、副賞の白いマーガレット柄のえんじ色の傘をもらってごきげんだったが、母は、しきりとはずかしがっていた。後日ラジオで、その日の放送をきいた。箱の中からはっきり、「家で、はげちゃびんが待ってますねん」と聞こえてきた。おじいちゃんは、「おせいというやつは」といったが、別におこってはいなかった。



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