連載小説「あかんべ」

              第8回「自由都市文学賞」最終審査ノミネート作品

                                        沢田俊子

―最終回―

 
 
和子の死後、半年ほども経ったある日、出版社から一冊の本が届いた。

『ケチを楽しんで一千万円ためよう』

  著者名をみて武志は唖然とした。生活評論家・山際和子とあった。和子ではないか。

  この手の本が、すでに何冊も出ているらしい。本の末尾に紹介されていた。

『暮らしの工夫』

『お金をかけずに満ちたりた食卓を』

『あなたも一か月9,999円で暮らせる』

『節約は、どこまでできるのか』

『ごみの山は宝の山』

『ケチケチ作戦で不景気を楽しもう』

『リサイクル手作りグッズの作り方』

  驚くではないか。そうだ印税。印税はどうなっているんだ。

  気にしながらも、送られてきた本を読んでいると、ちまちまと生活をしていた

和子の息づかいが聞こえてくるようだ。

  あとがきを読む。

 ―あなたなら、もし一千万円へそくりがたまったらどこに隠しますか。私が最近

発見した最適の隠し場所は、靴の中です。靴の上敷きをめくってその中に中敷き

の形に折った万札を敷き込んでみると、なんと、片足五万円までなら、サイズに

も影響はありませんでした。もっとも一千万円を隠すために、大量の靴を買わね

ばならないなんて不合理よね。一千万円をへそくりたいあなた、隠し場所は別の

所にしてね  ―。

  武志はあわてて、げた箱にとんでいった。

たった二足しかない自分の革靴のうち、黒い靴の中敷きを急いでめくった。あ

った。しかし、それはお札ではなくて、薄紙に書かれた手紙だった。

 

    残念でした。お金のありかはあなたの靴

    ではありません。

    百八十七足の私の靴の中に、片足に五万

    づつのお金がしきつめてあります。

    私の靴、まさか捨ててはいないわよね?

    美奈子さん(でしたよね)には小さいし

    私が死んだあと、あの靴をあなたがどう

    するか、興味津々です。

    印税、特許料など私の死後に生じる利益

    のすべては、『地球の資源を護る会』運

    営のために寄付する手続きをとりました。

    家は同会の事務所に提供しましたので、

    悪しからず、お明け渡しください。

 

  べろりとめくれあがった靴の上敷きは、呆然とつっ立っている武志に向かって
まるで「あかんべ」をしているように見えた。

 

                           完

 

     ご愛読くださいましてありがとうございました。
     お楽しみいただけたでしょうか? 
     感想などありましたら、
     メールでお送りいただければ、うれしいです。
     
評判のいかんによって、いずれまた、次の連載を……
     とも考えています。

 



―第十五回―

美奈子だった。

 座敷に散乱した大量の靴や箱に、美奈子は困惑した表情を見せている。     

「何なの、いったい」

  片っ端から靴をつまみあげては、「ひゃあ」「まあ〜」「ひどい」「最低」

「お下劣」など、あらんかぎりの悪態をつきながら、顔をしかめている。

「悪趣味ねえ。どうするの、この靴?」

「どうしょうもなにも……」

  武志は、冷静に物事を考えられる状態ではなかった。

「捨てなさい」

  美奈子は叫ぶと、台所からごみ袋を持ってきて、箱から取り出した靴をどんど

んつっこんでいった。黒いごみ袋がいくつもできていくのを、武志はテレビのシ

ーンでも見るように、ただ見ていた。

「早く、焼却所に持っていきましょうよ」

  美奈子にせかされながらごみ袋を車にのせ発進させた。まるで三角関係のもつ

れから殺した妻の遺体を、愛人と捨てに行くような気分だった。きっと口うるさ

い近所が勝手な噂をすることだろう。

  ごみ処理所の大きな穴にごみ袋を投げ入れながら、数百万円はしたであろう靴

が明日には灰になるのかと思うと、情けさがこみあげてきた。二十年間も一緒に

暮らしてきた和子という女、あれはいったい誰だったのだろう……。

  バーで豪勢に飲んで、美奈子がせがむにまかせてブランド物のバッグを買って

やった。和子がいつも提げていたみすぼらしいかばんが、酔っ払った頭をかすめ

た。かまうもんか、あいつはボロが好きだったんだから。

  今晩は、正々堂々と美奈子のマンションにいくぞ。帰る時間など気にせず、手

足を伸ばしてやる。そのつもりが、「きょうは、ダーリンが来るから、またね」

とタクシーに押し込まれてしまった。

「て、やんでえ、ばかにしやがって」

 

  自宅に帰ったころには、すっかり酔いがさめていた。

  和室に散乱した空の箱をつぶしながら、武志は、ふと和子ならこの空き箱を何

に利用するのだろうと考えている自分に苦笑するのだった。

  H11・12/12……か。

  武志の誕生日だ。いったいどんな靴と手紙が入っていたのだろうか。確かめら

れなかったのが残念な気がした。と、武志は箱をつぶす手を止めた。ふたの裏に

マジックで何か書かれている。

 

    H11・12・12

 

    医者はいいました。

    「睡眠薬ばかり飲んでいたら、ぽっくり

いっちゃうよ」

    ぽっくりもいいと思いました。

    臓器提供で悩むこともないんですもの。

    いつ死んでもいいように、私は、自分で

    稼いだお金を隠すことにしました。

    どこに?

    裏切り者のあなたには教えないでおこう

    とか思いましたが、最後の誕生プレゼン

    トです。

    もし見つかれば、あなたのものです。

    ヒントは「あかんべ」です。

 

「ばかばかしい。何があかんべえだ」

  つつましやかな振りをしやがって、何百万もの無駄金を使うなんて。もう、く

そくらえだ。ひねりつぶされた靴箱が宙を舞った。



―第十四回―

    私は靴屋に走りました。

    履きもしない破廉恥な靴に三万円も払う

    ことが、あなたへの仕返しだと思うと、

    それはもう恍惚感でした。三万円が五万

    円でもかまわないのです。

 

  飲み屋街のネオンにも劣らないけばけばしい飾りを施したショッキングピンク

のエナメルの靴を武志は手に取った。左の靴の先がかなり傷ついて歪んでいた。

どうしてなんだろう。まかさ、更のうちから傷のある靴を買ってきたわけではあ

るまい。

 

    ここのところ、毎日のように靴屋を覗い

    ています。そして、買わずにはいられな

    いのです。

    もし今日、あなたが早く帰ってきたら、

    こんなばかげたことは、金輪際やめるつ

    もりでいました。

    十二時になるのを待って、私はこの靴を

    はいて、家の中をかっ歩しました。かか

    とが、張り替えたばかりの畳にささりま

    す。なんて愉快でしょう。スカートをた

    くしあげて太ももをあらわに、腰をくね

    らせて淫らなポーズをとってみました。

 

  なんということだ。あのつつましやかな和子が……。武志は、頭をかかえこん

だ。二十年もいっしょに暮らしていたのに、武志は和子のことを何も知らなかっ

たような気がした。

 

    この靴で、大黒柱をけりあげた時の、足

    の痛さ。とび上がりました。

    ばか野郎。私は泣き叫びながら靴を片手

    に持ち、柱に打ちつけました。もし、そ

    の時の私をあなたが見ていたら狂ってい

    ると思ったことでしょう。いいえ、たし

    かに狂っていたのかもしれません。

    あなたが浮気をするたびに買った靴はと

    っくに百足を越え、靴代は、かなりな額

    になりました。

 

「な、なんだと!」

  武志はあわてて暗算をした。一足二万円としても、今、ここにある靴はざっと

……。武志の頭の中で、掃きだめから飛び立つからすのように一万円札が乱舞し

た。

「こんなくだらないものに、おれの金を使いやがって」

  積み上げらた靴箱を片っぱしからけり倒した。赤や紫の靴が部屋中に飛び散っ

た。死者に鞭打って何になるのだろう。しかし……。

  その時、チャイムが鳴った。


―第十三回―

  H11・6・10

    手術の度に衰えていった父の最後の言葉

    を思い出す。

    「つらかった」だった。

    何のための手術だったのだろう。

    わずかとはいえ延びた命で、父は何をし

    たかったのだろう。結局は、苦しむため

    の延命ではなかっただろうか。

    体からぶら下がった沢山の管が父の命を

    吸い取ったような空しさだけが残った。

 

    癌に侵されていると知った母は、手術を

    拒否した。延命も拒否した。「自然のま

    ま逝かせてほしい」と懇願した。

    そして、潔くこの世を辞した。わたしも

    母と同じにしたい。

    臓器を提供しないことは、卑怯なのだろ

    うか。人として失格のなのだろうか。

    自分の体を提供しないくせに、物をリサ

    イクルしていることは、もしかしたら、

    傲慢なことなのだろうか。

 

  やはり和子は悩んでいたのだ。

 

    H11・8・19

    セミがわたしを笑っている。

    わたしをあざけるために、この世につか

    わされてきたようなセミ。

    さんざん悪口を言って、言いつくして、

    あっけなく死んでいく。

    それに比べて、わたしは長い人生を、た

    だ耐えるだけ。

    父と母の思い出だけを大切に、ひとりで

    生きるべきだった。

 

  なぐり書きのように字が乱れている。文句ひとついわなかった和子が結婚後悔

していたなんて……。

 

    H11・4/10

    きょうは、二十回目の結婚記念日。私に

    とっては、かけがえのない大切な記念日

    なのに、あなたには、それより大切なこ

    とがおありのようですね。

 

  武志は忘れていたわけではなかった。妻と二人だけの記念日ごっこがわずらわ

しくなっていたのだ。この日、武志は一人で飲んでいた。美奈子のマンションで

飲むつもりでいたのが、デートだからと断られた。新しくつき合い始めたという

若い男に夢中なのだ。美奈子とは割り切って付き合っているつもりでもなんとな

くイライラする。そんな気持ちで結婚記念日でもなかった。

 



―第十二回―

  H12・1/7

    店のなかで一番下品な、決して履くこと

    はない靴を買う時の後ろめたさは、快感

    でした。裏切りには裏切りで返すことに

    したのです。おわかりかしら?  靴の数

    は、つまり、あなたの私に対する裏切り

    の数だということを。

  武志は身震いをした。どこからか、あの日七草を刻んでいた和子の念仏のよう

な歌声が聞こえてきたような気がした。

  今年の一月七日は、とても寒かった。美奈子の暖かいベッドの心地よさに、つ

いうとうとしてしまい、始発で家に帰った。美奈子の家に泊まることにも慣れて

きていた。まずいことになったと思ったのは、ドアを開けた瞬間だった。武志の

耳に聞こえてきたのが、台所で七草がゆ用の青菜を刻む和子のトーンの落ちた声

だった。

      とうどのとりと  にほんのとりとわたらぬさきに  ななぐさなずな

 

  暗くて悲しそうな歌声に、思わず玄関に立ちすくんだことを思い出した。

「いややわ、そんなところで何をしてはるの」

  こ走りに玄関に出てきた和子の声は、うってかわって明るかった。

「麻雀って、勝ってしまうと、なかなか帰してもらえへんのよね」

  疑っているそぶりなど、みじんもみせなかったのは、遅くなると電話をしてお

いたからだと信じていた。

「七草がゆ、無駄にならへんでよかった」

  何事もなかったように向かい合って粥をすすった。そしていつもの通り、和子

の揃えてくれた服を着て会社にいったのだが……。




    H11・8・5

    私は、この頃、眠れなれないのです。

    眠れないと、ついよけいなことを考えて

    しまいます。

    眠っているうちに、あなたと私のささや

    かな記念日がどんどん減っていくような

    気がして、こわいのです。

    お医者さんは、ご主人に相談しなさいと

    いいます。わたしを裏切り続けているあ

    なたに、何を相談すればいいというので

    しょう。

    あそこの医者はやぶだ。

 

  いつからだろうか、和子は階下で寝るようになった。それは遅くまで夜なべを

していたい和子の都合だとばかり思っていた。だから和子が不眠症だったなんて

全く気がつかなかったといったら、夫として無責任かもしれない。

 

    H12・2・1

    夫に追われて、捕まえられて、内臓をえ

    ぐりとられる夢を見た。

    怖い。あれこれ考えると、眠れない。

 

  和子の死因は睡眠薬の飲み過ぎによる心臓の衰弱だった。いろいろ事情を訊か

れたが、その時は、妻が睡眠薬を常用していたことすら知らなかった。まして、

不眠の原因を訊かれても、思い当たることは何もなかった。深夜まで手芸に熱中

していることはあったが、朝はちゃんと起きて、きげんよく朝食を作ってくれて

いた。しかし、今、残された手紙を読んでいくうちに和子を死なせたのは、彼女

を愚鈍だときめつけて、その心の内に気がつかなかった自分だったような気がし

ていた。

  そういえば……。武志は人間ドッグのついでに、ドナーナカードをもらってき

たことがあった。

「おまえさんも登録してみたら?」

  何気なくいったことばに、和子は異様なぐらい拒否反応を示した。

「私、体を刻まれるのなんていや」

「臓器を提供するというのは、まさに和子が好きなリサイクルだぜ」         

「人間は別やわ。物とちがうもん」

「死んでしまえば物と同じだよ。物は最後までまっとうされるべきというのなら

人間だってそうじゃないのかな?」

「ちがうえ」

「与えられた一生を終えて、まだなお、人様のお役に立つことができるなら、ど

うぞ、どうぞ、どこでもお使いくださいてんだ」

  和子は何もいわなかった。言わない代わりに武志を憎悪を込めた目で睨みつけた。

「やれやれ。そんなにいやなら、無理にとはいわないがね」

  心が狭いやつだと思ってはみたものの、武志にしてみれば、その話はその場限

りのことだったのだが、思いこみの強いところのある和子には、負担になってい

たのだろうか。



―第十一回―

    H11・3・3

    ひなまつりが来るたびに悲しいのは、子

    どもを生めなかったせいでしょうか。

    三十六歳にもなっているのに『子宮発育

    不全』だと診断された時は、ショックで

    した。あなたには、申し訳なくてとても

    いえない。そのかわり、なんでも許さな

    くては。子どもが生めない罰やと思って

    ……。

  なんということだ。子どもができない原因は双方にあっただなんて。どちらか

が思いきって打ち明けていたら、治療の方法もあっただろうし、同病相憐れむと

いうことで、夫婦の関係も違っていたかもしれない。核の部分で解り合っていな

かった和子との二十年は、いったい何だったのだろうか。

                     

    H11・5・4

    今日は、母の祥月命日でした。     

    泣いたり、反抗したり、甘えたりするこ

    とで、母の愛情を確認していた遠い日が

    恋しくてなりません。     

    今の私には、心をさらけ出して泣く相手

    も、わがままいっぱい甘える相手もいな

    い。何もかも信じて、身を投げ出す相手

    もいない。

    ひたすら靴を買うことで、不安で転覆し

    そうな心のバランスを保つしかないので

    す。             

 

  一人っ子だった和子は、確かに武志より亡くなった両親のことを大切に思って

いる節があった。朝の一服のお茶にしろ、炊きたてのご飯にしろ、武志のことは

後回しにして、まず仏壇に供え、リンを叩く。武志はそれを嫌っているわけでは

なかったが、たまには先にと思うこともあった。信仰心のない武志にはいかに親

とはいえ、夫を差し置き、とっくに死んだ人に、大事な相談事をする和子を咎め

ずにはいられなかった。

「そうかて、わたしのことは、死なはったお母ちゃんが一番わかってくれはるさ

かい」というのが和子の言い分だったが、夫としては合点がいかないことだ。

  しかし、和子が書き残した「不安で転覆しそうな心」とは、いったい何が言い

たいのだろう。意味がわからないまま、武志の心だけが早鐘を打っていく。




    H11・2・16


    最初に買ったこの靴は、消費税をプラス

    すると二万円を少し越えたと思います。

    日々節約をむねとしている私にしては大

    金でした。胸がどきどきしました。お金

    を払ったとき、快感が足下から脳天に突

    き抜けました。

    してやったり。ざまあみろ。ふざけるな

    どれも、あなたに対する偽らざる気持ち

    でした。

    自分の存在が証明できたような、不思議

    な気分がしました。       



  自分の存在を証明したいだって?  ばかげている。結婚以来、十分自己主張し

てきたではないか。それにしても、ざまあみろ、ふざけるなとはいったいどうい

うことだ。武志は確かめたくって、あわてて他の靴箱に手を伸ばした。


―第十回―

    H11・9・4

    誕生日ごときといわれてしまえばそれま

    でですが、子どものいない私にとって、

    誕生日は、大切にしたい数少ない記念日

    の一つでした。

    ただ忘れたというのなら、許すこともで

    きたでしょう。その日を、踏みにじられ

    たというくやしさから、また、履きもし

    ない靴を買いました。

 

  わけがわからなかった。倹約こそが生きがいだった和子が、誕生日を忘れられ

ただけでこんなに趣味の悪い靴を買うだろうか。もう一度手紙を読み直す。踏み

にじられたくやしさ……。とたん、武志は頭をなぐられた思いがした。和子は、

美奈子のことを知っていたのかもしれない。

  いや、そんなはずはない。和子はリサイクルのことしか考えていないようなあ

る意味では鈍感な女だった。美奈子のマンションに寄った日、少し後ろめたい気

持ちで家に帰るといつだって和子は、茶の間の指定席に陣取りたまごの保護ケー

ス、古着、ペットボトル……など、集めた廃品をなんとかリサイクルできないも

のかと睨みつけていた。その姿は、岩蔭にひそんで獲物が近づいてくるのを辛抱

強く待っている大とかげのように他の物は眼中にないようだった。

「お帰りやす」

  大とかげは、眼鏡越に武志をみあげた。和子が眼鏡?  そうか、いつの間にか

老眼になっていたのか。あごの横で切りそろえたおかっぱ頭もだいぶん白くなっ

ている。二十年という歳月を共に過ごしてきた妻に対する慈しみが、ふっと沸き

上がったのは、子どもがいれば、もう少し違った生き方ができたのかもしれない

とふびんに思えたからだ。

  結婚当初、和子は女の子がほしいとよくいっていたが、そのうちあきらめたの

か、その話題にはふれなくなった。武志は、自分に子種のないことを、いっそ白


状してしまおうかという思いを頭から振り払うように、武志はわざとそっけなく

「ああ」と応えた。

「今夜、湯豆腐なんやけど」

「いらん」

「おふろは?」

「疲れたから寝る」

「そう」

  もしかしたら、夕飯を食べずに待っていたのかもしれないと思ったが、早く二

階に逃れたかった。

  どんなに遅くなっても、和子は、「夕べはなぜ遅くなったの」とも「だれと一

緒だったの」ともきかなかった。だから、てっきり何も知らないものだと思って

いた。いつ頃から美奈子のことを知っていたのだろう。手紙にまた靴を買ったと

書いてあるということは……。

  武志は手当たりしだいに箱から靴を取り出して、つま先に手を突っ込んだ。丸

められたごわごわ紙は、すべて手紙だった。



―第九回―

 それにしても、一、二足ならともかくも、不可解なほどの大量の靴は一体何を

意味しているのだろう。倒産した靴をただ同然で買い占めて、得意のリサイクル

でもする気だったのだろうか。それなら、居間に積んでおけばいいのに、なぜ隠

すようにしまいこんであったのだろう。武志は、推理小説でもひもとくようにあ

れこれ考えてみたが、納得する理由はみつからなかった。

 美奈子に履いてもらおうかと思ったのだがそういうわけにはいくまいと、すぐ

に思いとどまった。妻の足は22センチと大人にしてはかなり小さかった。靴の

サイズの合わないのだけは、どうすることもできない。それにたとえサイズが合

ったにせよ、この趣味の悪さは、だれも欲しがらないだろう。

「なんとしたものか……」

 寝そべりながら、うず高く積まれた箱をながめていた武志は、靴箱に、マジック

で記されている数字に気がついた。

  H11・4/1

  H11・9/9

  H11・2/5……。日付けのようだ。

 武志がH11・9/4と記された箱に手を伸ばしたのは、その日が和子の誕生日

だったからだ。

 和子は夫婦の記念日を大切にしていた。にもかかわらず、会社の帰りに美奈子の

マンションに寄ってしまったのは、うっかり忘れていただけのことだった。美奈

子とくつろいでいる間、武志の頭の中に誕生日が思い浮かんでくることはなかっ

た。もし思い出していたら、次の日が休日だったにしろ泊まらなかっただろう。


 翌日、武志が家に帰ると和子はいなかった。そんなことは、結婚以来一度もなか

った。いやな予感がした。和子のいない古家は息がつまった。居間の積み上げら

れた見慣れたリサイクルのための古着までが疎ましかった。自分と全く違う価値

観の世界に息づいている妻と、長年夫婦をしてきたのが、改めて不思議に思えて

きた。

 和子との結婚を続けてきたのは、経済的な打算からではなかっただろうか。不服

をいわない家付き家政婦として、ただ便利に利用していただけではなかっただろ

うか。

 いたたまれなくなり二階にかけあがる。サウナのように熱気のたまった部屋の窓

を思いっきり開けると、川風が通りぬけた。心地がよい。物干しから裏の平家の

甍越しに鴨川を眺めていると、幾分心が落ち着く。きらきら光る川面を、まるで

飛行機が着地するように白い鳥が幾羽も舞い降りている。子どもの歓声が車の騒

音に混じって遠くから聞こえてくる。子どものいないさみしさが、突然痛みとな

って武志の鼻腔を通り抜けた。不妊の原因が自分にあることを告白して、医学的

になんらかの対処をした方がよかったのではなかっただろうか。そうすれば、た

とえ子どもに恵まれなかったとしても、夫婦の間に別の何かが生まれていたかも

しれない。その問題を棚上げにしたまま過ごしてきた二十年に、自分のずるさを

感じていた。だけど、今更どうしょうもない。

 ベッドに寝そべって所在なく和子を待っている自分と、美奈子のマンションで酒

の飲んでいたハイテンションの自分と、本当の自分は一体どちらなのだろうか。

定年になった後の生き方までが気になる。

 ちょっとだけ眠ったつもりが、辺りは薄暗くなっていた。豆腐屋のチリンチリン

の音がすぐ近くで止まった。買いに出ているのは、薬局のばあさんか、それとも

……。

 奴豆腐が食いたい。買いに出て、顔を合わせるのはおっくうだ。いつまでも帰っ

て来ない和子に、武志は腹を立てていた。

 武志は料理が作れない。空腹のあまり冷蔵庫をあけると、ラップのかかったロー

ストビーフが入っていた。ローストビーフは、二人の間では、記念日のための特

別料理だった。そこでやっと、昨日が和子の誕生日だったことを思い出した。

 ほどなく帰ってきた和子は「講習会が長引いてしもて、かんにんえ」といって、

何事もなかったかのようにふるまったが、この時のことは、武志の心に後ろめた

さのしこりとなって残っていた。

  H11/9/4の靴箱に入っていたのは、どぎつい紫色の靴に金色の飾のつい

た靴だった。底をみてみる。やはり一度も履いていな
い。靴の先に、詰め物がし

てある。いやに硬い紙だ。取り出して広げてみると、手紙……だった。

 和子の字だ。いったい何だろうと動悸が速まる。いかに過去に書かれた手紙だと

はいえ思いがけない場所から出てきた死者からのメッセージを読むのは、緊張す

る。 



―第八回―

 美奈子が短大を卒業して武志の職場に入ってきたのは、武志が三十歳の頃で、も

う二十年も前のことだ。最近の若い子にたがわずあけすけと物を言う美奈子は、

友達のようにため口で、武志に話しかけてくる。それが嫌みにならない。さっぱ

りした気性に惹かれて武志はプロポーズをした。 

「あたし、結婚しない主義なの。ひとりの男のために縛られて家事をする人生な

んて、まっぴらごめんだわ」

  そこまであっけらかんといわれると、振られたというわだかまりも残らない。

それからも、いや武志が結婚してからも、他の同僚といっしょにカラオケにいっ

たり、飲みにいったりが続いていた。

  二年ほど前、酔ったはずみで男と女の関係になったものの、あいかわらずから

りとしたつきあいだった。

  美奈子は四十歳を過ぎたはずなのに、入社当時と変わらず、自由で華やかな独

身生活を送っていた。つきあっている男は武志だけではないようだ。男友達をパ

トロン、恋人、友達と使い分けているのだという。自分はそのうちのどれなにな

るのだろうかと考えている武志に、美奈子は勘違いしたらしく、「みんな会社の

人じゃないから、安心して」とウインクをしてみせた。風呂あがりに着せられる

パジャマが自分だけの物ではないということさえ気にしなければ、美奈子とのひ

とときは忘れかけていた青春そのものだった。

「そんなに切り詰めた暮らしをしていて、奥さん息がつまらないのかしら」

「つまるどころか、自分のけちぶりに恍惚としているよ」       

「あたしは嫌だわ。そんな人といっしょに暮らすなんて気が狂いそう。あなた、

よく我慢できるわね」

「あいつはあいつ、おれはおれさ」

「それで夫婦といえるの?」

「ものは考えようさ。おれと美奈ちゃんとが世帯をもってみろよ、半年で破産だよ」

「いえてる。今日も明日もパーッと飲んでりゃね」

  実にのびやかなひとときを過ごした後、古い町の古い家に帰ってくると、家自

体がよそよそしい。祖父の代から住んでいるという古い家が和子の味方をしてい

るのか、いつもになく床がきしみ、戸の開け閉めがうまくいかなくなる。まさか

家が嫌がらせをしているわけではないだろうが、男三界に家なしの実感がする。


「きょうは、あなたの好きな柳川なべなんやけど」

 屈託のないその声は、時として武志を苦しめる。うしろめたかった。柳川鍋は、

武志の嗜好に合わせて、豚肉とささがきごぼうとにらを卵でとじたものだ。金を

かけないでそれなりの料理を作るということは、時間と愛情がいる。少しでも安

い材料をそろえるために隣町まで歩いていったであろうことを思うとやましさが

武志の心をつついた。

「すまん、飲んできた」

「かまへんねん、あした、うちがお昼にでもいただくさかい」         

 シブチンの和子は余分な量の料理は作らない。当然余り物がでない。「主婦の

昼食は残り物」と耳にする度に、武志は和子が昼間何を食べているのだろうかと

気になっていた。和子が自分のためにわざわざ昼食を作るなんて考えられない。

「きょうの昼は、何を食べたんだい?」

 その一言が、なかなかきけなかったのは、もし、「昼は抜いている」などいわれ

でもしたらと思うからだった。夫婦の間でも決して開けてはいけない引き出しが

あるとしたら、武司にとっては、美奈子とのひとときの詰まったもので、和子に

とっては、昼間の節約生活のような気がしていた。

  あすの昼は柳川を食べるといった和子の言葉に、武司はほっとしていた。


―第七回―

 台所から、魚を煮つける甘辛い匂いがしてくる。和子の父親と親しかったとい

う町会長から釣りのおすそわけが、また来たらしい。度々の到来物の返礼に、和

子は、じいさんの衣類のほころびを直したり、廃油でできた石けんを差しあげた

りしているようだ。

 それにしても煮物の匂いは食欲をそそる。幼い頃、遊び疲れて家に帰ると、よく

していたなつかしい匂いだ。お膳の中央に置かれた大皿には、鰯や鯖の煮物が盛

られていた。父がそのうちの一切れを小皿に取る。味見をするつもりだ。味見は

父だけの特権だった。母は台所で、みそ汁や漬物などを用意している。武志たち

子どもは、固唾を飲んで父の手先をじっと見る。畑仕事でごつごつした手で父は

長い箸を持つと、もったいぶって魚の身をぽろりとほぐし、口に放りこむ。点々

と伸びた口の回りの黒いひげがあごといっしょに上下する。「うまい」。父がう

なる。正座している子どもたちの尻が、かかとから少し浮
き上る。

「食うか?」

 父の言葉を待ちかねたように子どもたちがお膳の回りににじり寄って、いっせ

いに口を開ける。

「また、つまみぐいをして」

 母ががなる。

「ほら、母ちゃん、おかんむりや。手伝ってこい」

  父は箸の先で魚の一片を子どもたちの口に押し込んだあと、首をすくめてそう

つけ加えた。小指の先程の魚の旨かったこと。早く晩飯にありつきたいため、競

うように小皿を運んだりして手伝ったものだ。

  武志も子どもがいれば、きっとそうしていただろう。食後、大根とキャベツの

ぬか漬けを肴にウイスキーグラスの氷をカラカラいわせながら、テレビを見てい

るうつらうつらし

ている瞬間、武志はふと、古びた京都の家に『自分の家庭』を感じるのだった。

 うつらうつらのあとハッと気がつくと、テレビはいつも消されていた。

「だまって消すな」

「そうかて、よう眠ってはったえ」

「ちゃんと見てたよ」

「もったいないんやもん」

  和子は、縫い物の手を休めないでいった。リモコンを操作してもつかない。ス

イッチを入れてもつかない。コンセントが抜いてある。和子にいわせれば、すべ

ての電気製品をコンセントで消すと、一年で何百円かの電気代が安くつくのだと

いう。

「けちけちするな」

  つい怒鳴ってしまった。妻がつましいのは勝手だ。それを押しつけられると腹

がたってくる。               

「こういうことって習慣が大切ですねん」

  昼間のトイレは、近くのスーパーに出かけてすませるという和子の言葉には逆

らえないものがあった。子どもがいれば雰囲気はいくぶん違ったかもしれないが

夫婦だけの生活の中で、倹約ムードが先行する暮らしには、息がつまる時もあっ

た。

  そんな武志にとって、美奈子のマンションで過ごすひとときは、心身ともにリ

ラックスできるのだった。片足を入れただけで湯舟からあふれるお湯。快適に冷

暖房のきいた部屋で、美奈子と飲む酒は旨い。デパートの惣菜売り場で買い揃え

たものとはいえ、あり余る料理……。まるで龍宮城だ。

  テレビをつけっ放しにしておいてもいいだけで、リッチな気分になれるという

武司を美奈子は笑った。

「けちくさいことをいわないでよ。なんなら寝室のテレビもつけてきてもいいわよ」

「そんなもったいないこと」

  そういってしまった自分に、(すっかり飼いならされたもんだ)と、武志は苦

笑してしまう。それをごまかすために、妻のけちぶりをジェスチャーをまじえな

がら、あれこれ披露しては嘲笑する時、武志は、身体にからまっていた枷が外れ

ていくような解放感を感じるのだった。



―第六回

 それにしても納得できないのは、今朝方げた箱で見つけた大量の靴だった。シブ

チンともいえるほど物を大切にする和子が、履きもしないど派手な靴を、何でま

た、こんなにもたくさん買いこんだのだろう。

 げた箱に並んだ靴で驚かされたのは序の口だった。寝室のクローゼットの中、

ベッドの下、納戸、和室の押し入れ、天袋、階段の下ありとあらゆる所から靴箱

に収まった和子の靴が出てくるわ出てくるわ、七、八十……。げた箱の靴も合わ

せると、その倍近くはあるかもしれない。

 靴箱がうず高く積まれた客間は、まるで靴屋の倉庫のようになってしまった。

もしかしたら二百足近くあるかもしれない。腹立たしかった。黄泉の国から和子

を引き戻して、いったいどういうことだと聞き質したい気分だった。             



 和子がリサイクル手芸をするようになったのは、母親の教えがあってのことら

しい。元教師だった母親は婦人活動家だったらしく、環境問題などにはだれより

も早く取り組んでいたそうだ。母親の関連するいくつもの婦人団体では、かなり

以前からリサイクル手芸が流行っていた。母親が亡くなってからも和子を中心に

地味ながら講習会など開いていたようだが、このところの不況で俄然人気が出て

きたらしい。リサイクル手芸の講習会をぜひにというPTAや暮らしを考えるサ

ークルなどからの申し出もあって、和子はオリジナ
ルな作品をせっせと工夫をし

ていた。


 講習会に参加して感動したという喫茶店のママのすすめで、和子は喫茶店の一隅

に手作りショップコーナーを開いていた。ここでの売り上げはママの言葉をかり

ると、「本家の喫茶店より多いのよ」ということになる。


 一番の人気グッズは、オリジナルリース。空き地で引っこ抜いてきた蔦を輪っか

にしたものに、平面縫いのくまのぬいぐるみを五個ばかりとりつけただけのシン

プルなものらしい。これがヒットしているのは、『あなたの思い出をリースに』

というキャッチフレーズが当たったのだと和子はいっていた。


「思い出をリースにって、どういうことだい?」

「リースにつけるくまのぬいぐるみを、お客さんの持ってきはった古着で作って

あげますねん」


 小さくなった子どものワンピースでぜひという注文が多いという。くまを切り取

ったあとのワンピースは、「捨てておいて」ということになる。シブチンの和子

には、それがたまらなくうれしいらしい。


 和子は庭にハーブを植えている。

「まるで雑草だね」と苦笑する武志に、「それがどうして、黄金の草ですねん」

と、和子はうれしそうに花鋏をチョキチョキいわせていた。リースのくまを切り

取った残りぎれで縫ったかわいい小袋に、乾かしておいたハーブの花を詰める。

わらで袋の口を縛ると、カントリーグッズとしてけっこう売れるというのだとい

うから、世の中おかしなものだ。


 色あせたTシャツの胴の部分を、りんごの皮でもむくように螺旋状に切っている

時の和子の表情は、まるで高級な生地を裁断する時のように真剣そのものだ。ひ

も状になった元Tシャツを、かぎ針でていねいに編んでいくと、マットや鍋敷き

になる。胸のあたりに蛍光色の黄色と青とピンクのサイケ柄があったのTシャツ

は、編み込まれてアートチックな柄を造っていた。


「あんさんの買うてきはった派手なシャツはええ素材になりますねん」


 Tシャツについていたタグを外し、かがりつけるとけっこう様になる。 

 
裏庭で、なんともいやな臭いがする鍋をかきまぜていることもあった。その姿

は、まるで妙薬を調合している魔女のように妖しげに見えた。揚げ物をしたあと

の廃油に苛性ソーダーを入れ、根気よくまぜていくと、石鹸になるのだと和子は

いった。でき上がった石けんは茶橙色のガソリン臭いものだったが、和子はその

石鹸で鍋を磨き、足マットや雑巾を洗いながら、匂い、洗い落ちなど改良点を試

行錯誤していた。でき上がった石けんの表面にアンティックの絵柄をデコパージ

ュして、セロファン袋に入れてリボンをかけたものがよく売れているといわれて

も、武志は首をかしげるしかなかった。


 テーブルに、アクリル絵の具でペインティングしたたまごの殻が転がっているこ

ともあった。濃紺にレモンイエローの星を散りばめたもの、黒と緑の奇抜なすい

か模様、羽を広げたこうもり、どくろを巻いたへび、舌を出したエンゼル……。

どれも、なかなか個性的でセンスのある絵だ。


「中に少し土を入れて、小さな観葉植物をうえてみようと思いますねん。食卓や

お手洗いトイレのタンクの上におくと、かわいいでっしゃろ?」


 捨ててしまった方が気楽なのにと、リビングにあふれ出ている廃品の山にうんざ

りする反面、リサイクル冥利に尽きるこういうグッズに出会うと、金をかけずに

金儲けをする和子のひらめきに、武志は天才的なものを感じるのだった。

 女房は始末屋にかぎる。だいいち物をねだらない。ブランド物を買わない。家計を安心して任

せておける。そう信じて、うんざりするほどのけちぶりに目をつぶってきたというのに、この靴の

多さはいったい何だというのだ!


―第五回―

「ねえねえ見てえな、作り方が雑誌にのってましてん」

  もう五、六年も前のことになるだろうか。武志の帰りを待ち構えていたように

和子が高さ十センチばかりの布製六角形の箱を見せていった。いつもはもの静か

な和子が、めずらしくはしゃいでいた。

「正座が苦手な人のための椅子やねん。こうしておいどの下にあてて座ると、足

が痺れへんのやてえ。中は、何で出来ていると思わはる?」

「木かい?」

  武志は、ほとんど義務感だけで相づちを打っていた。もともと金離れのいい武

志は、最初こそものめずらしかった和子の始末ぶりがだんだんわずらわしくなっ

ていた。けちくさいとほどの切り詰めた生活は、武志にとっては息詰まりさえす

る。しかし、結婚十五年経った今も、新婚当時と変わらない生活費で家計を切り

もりしてくれる和子に文句をいう筋ではなかった。家のローンがないというのも

気楽だった。

  武志の投げやりな返事に、それでも和子はうれしそうに、「ううん」と首をふ

った。

「それがね、牛乳パックでできてますねん」

  手で押してみた。ピクリとも凹まない。

「へええ、まるでお前さんの意志のように、頑丈だね」

  遠回しの皮肉は、和子には通じない。

「そうどっしゃろか?  これでたまっていた牛乳パックの整理ができるさかい、

うれしいわ」

  当時、珍しかった牛乳パックの椅子を、和子は取り憑かれたように作りはじめ

た。

「やれやれ、日頃の不義理に、親戚中に配る気かい?」

  会社から帰る度にどんどん増えている牛乳パックの椅子に、武志が戸惑いを感

じ始めた頃、引き取り手が現れた。近くの寺だ。最近の若い者は正座が苦手だ。

かといって本堂で足を投げ出すわけにもいかない。年配者の中にもひざの具合が

悪く、正座が苦手な人も多い。そんな人達に和子のかさばらない椅子は重宝らし

い。

  ただ同然で手に入れてきたという喪服をほどいているのは、牛乳パックの椅子

を覆うためだという。

「同じ綸子でも昔の物はさすがやわ、ぼってりと重うて手ざわりがちがうねん」

  尻に当たる部分に綿を入れると、牛乳パックのリサイクルとは思えないほど見

栄えのいいものができ上がった。寺からは、過分なお礼をもらったらしい。               

  段ボールいっぱいに出た牛乳パックの切り落とし部分を、「さっさと捨てろ」

といったら、和子に咎められた。

「これかて、まだまだ利用できますねん」

「このごみが?」

「ごみとちがうし」

  物はすべて生かされるべきだという和子には、ごみなど存在しないに等しいよ

うだ。牛乳パックの切れ端は、コーティングされていたビニールをていねいには

がし、ぬるま湯につけてふやかし、ミキサーにかけ、ふのりと煮るのだという。

(みみっちい)

  吐き出したいその言葉を、武志は飲み込んだ。わずかな金しか家に入れない武

志に対して文句のひとつも言わない代償だと思えば、ちまちまもけっこうなこと

に違いなかった。

  煮てとろとろになったパックの紙を、おくらなどの入っていた網袋をはりつけ

た木枠で漉いて、葉書にしてしまった。それを民芸品店に置かせてもらうのだと

いう。

「そんな物が売れてたまるか。世間はそんなに甘くないぞ」

  紅葉や銀杏などの葉の他に、蓮根やおくらの輪切りをあしらったのが珍しかっ

たのか、五枚セットにした葉書は、武志の思惑の外、少しずつだが確実に売れて

いった。和子は生き生きしていた。夜眠れなかったなんて、素振りにもみせなか

った。


―第4回―

  和子が「つましい」という叔母の言葉に偽りはなかった。ごく短い糸くずでも

捨てることはしなかった。こまめに三つに折った古タオルに刺していけば、塵も

積もればで、何か月後には雑巾になるというかなりの始末屋だった。

「新しい糸で雑巾を縫うなんて、そんな大それたこと」

  冗談かと思ったが、和子は真剣そのものだった。             

「糸代なんてわずかなことじゃないか」

「お金がどうのというより、糸くずでも立派に役に立つんやもん。捨ててしまう

のん、もったいのうて」

  和子が良く作る『小魚のぴりぴり煮』という常備菜は、酒の肴にけっこううま

かった。それがなんと、だしを取ったあとのだしじゃこを炒ってから、唐辛子の

入った砂糖醤油でからめてゴマを振ったものだときいて、驚いた。だしをとった

あとの昆布は乾かしてから油で揚げて、武司の好物の『カリカリ昆布』に変身す

ることもあったし、佃煮として食卓にのぼることもあったし、根菜類の端っこと

いっしょに酢に漬けてあることもあった。

  和子の作るみそ汁は、どことなく香ばしくて旨い。魚の頭や骨を弱火でじっく

り焼いた後、かつをぶしといっしょにミキサーにかけて粉末にして、カルシウム

たっぷりのだしの素にしているという。

  グレープフルーツは袋ごとミキサーにかけてジュースにする。それは袋や白い

内皮の部分にビタミンPが含まれていて、いっしょに食べるとビタミンCの吸収

をよくするのだそうだ。外皮はよく洗い、砂糖で煮ることもあるし、臭みが消え

るといってステンレスの流しを磨いていることもあった。磨いたあとの

皮はコンポスターに入れて堆肥にするという徹底ぶりだ。

「物は、全うさせてやるべきですねん」

  そういう和子の生活感覚は、武志にとって新鮮で、面白いものだった。月々生

活費として渡す額は、給料の半分以下でいいのが何よりだった。

  結婚してすぐの十二月のこと、夫婦の名前で上司や親戚に歳暮を送ろうという

武志に、和子は、頬にかかったおかっぱの髪の毛を耳の横にはさみながら、時々

見せる覚めた表情でいった。

「のり、石けん、お酒、シーツ。あんたはんなら何をもらいたおす?」

「さあ、酒かな?」

「お酒なら、ワインでも日本酒でもよろしいていうことやの?」

   それは困る。酒はウイスキー。それもバーボンと決めている。

「そうどっしゃろ?  飲みすけということがわかっていても、そこまで気をつか

って贈ってくる人がいったい何人いはるんやろ?」

  そう言われてみればそうだ。なかなか手に入らないという吟醸酒も武志にとっ

ては猫に小判。いったん封を切ったものの、調味料として和子に払い下げた。

「しかし、君と見合いをさせてくれた叔母だけには」           

「仮に石鹸を贈るとしてみてえな。叔母さんはどんなのがお好み?  液体がええ

のか固形なのか、香りはバラかハープか、それとも無香料?  もしかしたらアレ

ルギーで、石鹸は使てはらへんかもしれへんし。食器にしても靴下にしても、気

にいらないもんを贈られてお礼をいわなあかんほど迷惑なことはあらへんと思う

ねん」

「そういってもだね」

「うちらが仲良うしているのが、叔母さんにとって一番の贈り物やと思わへん? 

けちかもしれへんけど、おたくが稼いできてくれはった大切なお金、むだにしと

うないわ」

  おたくが稼いできてくれはった大切なお金。今時、こんなことをいってくれる

女がいるだろうか。給料が銀行振込制度になって以来、稼いだ金は妻のものが当

り前になってしまったこのご時世に、和子の言葉は例えようもない神々しさで、

鋭く深く武志の心を射抜いてしまった。中元、歳暮等、義理を送るということが

いかにばかげているかまでが、ストンと武志の胸に落ちていった。

  しかし、こと葬儀に関しては別だった。香典を包まないことは、礼儀を事欠く

ことに思えた。

「お香典をもらったあとの大変さいうたら、ほんま、あらへんねん。どこのだれ

だかわからへん人を相手に、いただいた金子を確かめながら香典返しの品物を選

ぶという煩わしさは、お中元やお歳暮を選ぶ比ではあらへんし何を返しても身内

からは、あとでいろいろいわれるし。父の時でこりて、母の時には一括してガン

協会に寄付したんやけど、それがまた非難ごうごう、大変やったんやから」

  数年前に両親をあいついで亡くした和子の話には、説得力があった。

「お香典を包まへんということは、冷たいみたいやけれど、結局、遺族への思い

やりやねん。こいうことは非難を覚悟で誰かが最初に止めなあかんと思うねん」

「しかし、なにもそれが俺たちでなくても」

「結婚したばかりの今しかチャンスは、あらへんえ。一回前例を作ってしもたら

あとは慣習あるのみやさかい。そうや、交際費をカットした分は、おたくのお小

遣いにまわしてもうてもよろしおすえ」

  和子は、かけひきがうまかった。

「今なら、不義理も嫁のせいにできるし」とまでいう和子に、結局言い切られる

形になった  中元。歳暮。香典。結婚祝い。出産祝い入学祝……。これらを廃止

することは、最初のうちこそ肩身が狭かったものの、浸透してしまうと、あの夫

婦は変わり者ということで誰からも期待されず、それはそれで気楽でもあった。

  いつしか和子の考えが、家庭の中を仕切っていた。

 



―第3回―

  京都の下鴨にある和子の家はそうとう古く、ねだの落ちかかった所もあったが

日常の手入れは行き届いていた。隔日に磨いているという柱は黒光りがしていて

和子の子どもの頃の背の高さを印した傷も、猫が爪を磨いたと思われる引っかき

傷も、それなりに趣があった。

  二階に上がると、物干し台から裏の平家の屋根越しに鴨川の流れが見えた。そ

れだけで京都に住んでいるんだという実感がした。

  休日の朝、鴨川のへりをぶらぶら散歩するのが武志の楽しみになった。川の流

れが低い滝を作っているすぐそばの浅瀬には小魚でもいるのだろう、野鳥が群れ

て、揺れる川面をついばんでいる。小高い土手では大きな犬から小さな犬まで、

まるでドッグショーのように行儀よく順番に現れては消える。何もかもが新鮮で

好ましかった。

「散歩、いっしょに行こうよ」と誘っても、和子は「顔がさしますさかい」とい

やいやをする。と、おかっぱの髪の毛が頬に当たってかわいかった。新婚の勢い

もあって、強引に引っ張って散歩に出かけたところ、それを予測していたかのよ

うに、近所の人たちが表に出てきた。

  和子は愛想よく頭を下げながらも、口元を手の甲で隠すと、「そやから、いや

やていうてましたやろ」とぶーたれてみせた。

「町会長はん、主人の武志さんですねん。どうぞよろしいお願いします。武志さ

ん、こちら、父の幼なじみで釣りのお仲間でしてん」と武志は紹介されることに

なった。町会長と紹介されたじいさんは、少々耳が遠いらしく、「どこに勤めて

いるのか」「干支は何か」「釣りはするのか」など武志が即答しているにもかか

わらず、声高に何度も聞き直した。武志のプロフィールは、忽ちのうちに近所に

知れ渡ったに違いない。

  やっとのことで解放されたかと思う間もなく、今度は、ばあさんが待ち構えて

いた。

「こちらさはんは、母の女学校からの仲良しさんで、表通りで薬局を経営しては

るんですわ。主人ですねん、よろしいお願いします」

  武志が老婆に会釈をすると、「和ちゃんが行かず後家にならはるところをあん

さん、ようまあ、もろたげはりましたなあ」と、暗に武志のことを物好きやとい

わんばかりに、上から下まであけすけに眺められる始末。夫婦で一緒に出かける

ことは、それ以来なかった。



―第2回―


  二十年前、京都に住む叔母が縁談を持ってきてくれた。

「とにかく、今時めずらしくつましい娘さんでね。婚期が遅れはったんは、五年

前にお父さんを、三年前にお母さんを看取ったからやねん。えらいやないの。け

なげやないの。おまけに、すごうしっかりしてはるそうやし、ええかげんなあん

たにはもってこいや。大切にしてもらえると思うえ」

  収入のすべてを小遣いとして使い切ってしまうことに慣れ切っていた武志は、

結婚などわずらわしくて、する気などなかった。

「そやからいうて、いつまでも一人身でいられては、近くに住んでるあてが迷惑

やねん。長野にいるあんたのお母ちゃんが電話かけてきて、末っ子のあんたがい

つまでも独身でいるんは、まるで、あてのせいみたいに泣かはってみとう、みほ

んま、かなわんえ。この娘さんやったら、僅かなお金で所帯をきりもりしてくれ

はるに違いないさかい。それに係累があらへんいうんは、気楽でええやないの。

おまけに向こうさんは家持ちやていうし、けっこうなことやないの。あんたかて

いつまでも、六畳一間に毛のはえたようなアパート住まいでは、かっこうつかへ

んやろ」

  こんな話はめったにないという叔母のすすめに、三十五歳になっていた武志は

一歳年上だという和子と見合いをした。

  口紅を引いただけの素顔におかっぱ頭の和子は、小柄で二十代にしか見えなか

った。黒地に白と赤のしぼりが所々に散った古風なワンピースがよく似合ってい

たので、「シルクですか?」と聞くと、和子はハンカチを口元にあてて、恥ずか

しそうにほほえんだ。

「変でしょ?  亡くなった母の和服の縫い直しですねん」

  なるほど、これが始末家だといわれる所以なのかと思いつつ、ほほえましく思

った。そういえば長野の母も針仕事が好きで、武志たち兄弟のズボンのひざなど

に、よくつぎをあてていたものだ。末っ子だった武志は、ただでさえつぎのあた

ったお下がりに更に穴をあけ、幾重にも布をあててかがったひどいズボンをはか

されていた。その代わり、いくら破って帰っても叱られたことがなかった。最近

の子どもが子どもらしくないのは、大人と同じように小綺麗なブランドものを着

せられているせいかもしれない。子どもにはお金より母親の愛情をかけるべきだ

と武志は、かねがね思っていた。しかしブランド指向の強い若い女性には、自分

の子どもにつぎの当たった服など着せられるわけがないだろう。しかし和子なら

……。武志は、穏やかな気持ちできいた。

「洋裁がお得意なんですね」

「得意やなんて。でも、もし子どもが生まれたら……」

 そういいかけて和子はみるみる頬を染めた。そんな和子に家庭の温かさを感じて、武志は結

婚を決めた。 
 


―第1回


  武志は、和子の遺していった大量の靴の始末に、ほとほと困っていた―。

                   

  妻の初七日が終わり、いよいよ今日から出社だという日の朝、武志は寝室のク

ローゼットの前で突っ立ったまま、はたと考えこんでいた。背広とワイシャツの

組み合わせがわからない。結婚以来二十年間、着る物はすべて妻任せだった。毎

朝、妻が選んでベッドに並べておいてくれたものを、端から順番に身につけてい

けば、それでよかった。

武志には衝動買いの癖があった。会社の帰りに本を買って、釣りをちゃらつか

せながら洋品店のウインドウを覗いていると、若い女店員が美しさをひけらかす

ようにすり寄ってくる。

「そのシャツ、先程入ったばかりなんです。熟年の方がお召しになると一段と素

敵だと思いますわ。鏡の前でおあてになってみません?」などと甘い声でいわれ

ると、断ることができない。女店員の「とてもお似合いです」ほど、当てになら

ない言葉はない。家に帰って改めて広げて見ると、その一枚が浮いて見え、たい

ていはもてあますことになってしまう。それを和子がなんとかコーディネートし

てくれていたというわけだ。

「確か、この背広にはこれが……」

  今、自分で組み合わせてみると、シャツやネクタイ、背広がそれぞれバラバラ

に自己主張してきて、なかなかしっくりこない。何度もワイシャツやネクタイを

とりかえ、靴下をはき直し、どうにか身じたくができた時にはベッドの回りには

引き出しをぶちまけたようにネクタイやシャツが散らばっていた。鷲づかみして

適当に押し込んだところ、洋服だんすの扉が閉まらなくなった。なんとやっかい

な。汗が吹き出してくる。

そうだ、ハンカチ。ハンカチはどこだろう。アイロンをかけて小引き出しにし

まわれていた中から一枚抜き出しすつもりが連なって出てきて、足下に散らばっ

てしまった。やれやれ。揃え直すゆとりすらなく、武志は時間を気にしながら急

いで階下に降りて行った。

  二、三日雨戸を開けなかったせいか、いやにひんやりとしている。食欲をそそ

るみそ汁の匂いもしなければ、パンの焦げる香ばしい香りもしてこない。武志は

牛乳をパックのまま立ち飲みしながら、使った食器類が流しにそのままになって

いるのを横目で見つめた。食器を洗うことなど忌引で休んでいる間は思いつきも

しなかった。葬儀の後数日は、会社の連中が入れ替わり弔問に来ていたので、だ

れかが片づけてくれていたのだろう。このまま放っておくわけにもいかない。そ

のことに気をとられていたので口元から牛乳があふれてしまった。それをスリッ

パで床になすりつけながら、ま、すべて帰ってからのことにするかと、無理やり

自分を納得させる。

  玄関のたたきに、靴が出ていないではないか。

「おい、靴……」といいかけて、妻は死んでしまったのだと頭の中で繰り返す。

子どもがいないのをいいことに、何もかも妻にしてもらっていた長年の習慣が形

状記憶のシャツのように身にしみついていて、突然の妻の死に順応できないでい

た。

  この家は、もともと和子の家だ。そのせいか、結婚以来、自分でげた箱など開

けたことがなかった。毎朝、和子がきちんと並べてくれた靴に足を落とせばそれ

ですんだ。

  何年も前に、和子が玄関先にも収納場所がほしいといって、知り合いの大工に

備えつけてもらった納戸兼げた箱の扉を開けたとたん武志は唖然としてしまった。

「な、なんだ、これは」

  天井まである収納棚には、けばけばしい婦人靴が隙間もないほどびっしり並ん

でいた。イタリア調といえば聞こえはいいが、スパンコールやビーズなどの派手

な飾りをほどこした赤や紫の下品な靴ばかりで、地味だった妻のものとはとても

思えない。が、夫婦だけの住まいに他人の靴などあるわけがない。すべて、妻和

子の靴にちがいなかった。一段に十足としても、ざっと六、七十足もあろうか。

  それにしても納得できない。妻は極端なしぶちんだった。夏冬問わず同じ黒っ

ぽい靴を履いていた。へしゃげて元の形をとどめていない靴を見かねて、「たま

には新調すれば」と言ったこともある。和子の答は、「まだまだ履けるから」だ

った。和子にとって靴とはおしゃれを楽しむというより、裸足で外を歩かないた

めの実用品でしかないようだった。

洋品類には目がない武志も、靴には興味がなく、通勤用としてオーソドックス

な紐つきの黒い革靴と茶のスリッポンの二足だけを交互に、もう五年近くも履い

ていた。かかとを打ち直し、底をはりかえて、毎朝ていねいに磨いて出しておい

てくれる和子に対して感謝こそすれ、文句などなかった。たいして給料を入れて

いなかったことに対して遠慮していたこともある。それなのに、この靴の多さ、

しかもなんともいえない趣味の悪い靴はいったいなんだというのだ。