ええがな映画 

独断と偏見の「とんぼ映画評」

2008年 映画館で観た映画

                                  
                                     2007
「ティンカーベル」

生まれた赤ちゃんが初めて笑ったときに、妖精が生まれるんですって。なんてロマンチックなのでしょう。ピーターパンでおなじみのティカーベルも、そうやって生まれました。無事、四季を司る妖精の谷にたどり着いたティンカーベルには、どんな仕事が向いているのでしょうか。

自分があこがれている仕事と才能が発揮できる仕事とは違うのです。それに気がついたティンカーベル。失われた物のパーツを集めて、組み立てたオルゴールを届けに行った先は……。
「252 生存者あり」

未曾有の大型台風が東京を襲います。地下街には大量の水が流れ込み、閉じ込められた多くの人々が命を落としてしまいます。その中で生き延びた5人がレスキュー隊の助けを待っているのですが、これでもかというふうに、次々、アクシデントが襲いかかります。聴覚障害を持った子どもを含めて5人が5人とも、それぞれ葛藤を抱えて生きている人たちばかりです。助かるわけがない。でも、助かりたい! そんな状況の中、地上では、レスキュー隊員が指令を待っています。命がけで活動している彼らにも葛藤が……。

「252 生存者あり」、いいタイトルです。
「白い馬・赤い風船」  名作といわれている2作が、同時上映されました。どちらもセリフはほとんどありません。

「白い馬」は、まるで記録映画のように、何もかもがごく自然でした。捕らえられた馬が自力で逃げ出そうとする姿。馬と馬との格闘。少年が野生の裸馬で追っ手をかわし、水辺を走り抜けるすばらしさ。でも、終わりがなんともせつない映画でした。

「赤い風船」は、庶民が住んでいるパリの下町の路地、そこで行きかう人々の様子が、時代を語っていました。ラストがいかにもメルヘンチックなのですが、あのあとどうなるのでしょうか。行方不明になった日本の風船おじさんを連想して、後味が今ひとつでした。風船の鮮やかな赤色がいつまでも目に残りました。
ラースと、その彼女

ラースはこころやさしい青年なのですが、兄夫婦とも住まないで、ガレージで暮らしています。30歳になっても、なかなか彼女ができません。なぜか、作ろうとしないのです。何かにつけ心配する兄嫁と兄に、ラースが恋人だと紹介したのは、なんと等身大のリアルドールのビアンカだったのです。なぜ、ビアンカが現れたのか、それは、ラースの出生時にさかのぼることがわかってきます。

好奇の目で見ていた周りの人たちも、いつしかラースをビアンカごと受け入れ、暖かく見守ります。そして、彼は……。
「地球が静止する日」

地球を救うには、人類を消滅しなければならないという使命をもって、異星人が世界中にやってきます。「いつ悔い改めるのかと、ずっと人間の行動を見守ってきたけれど、もう待てない」と彼はいいます。長年にわたり中国人に姿を変え、人間と暮らし、観察し続けてきた別の惑星人の意見も同じです。ただ、彼はこういいました。「わたしは自分の惑星には帰らない。地球人と運命を共にします。彼らには別のいい面もあるのです」。傲慢な人間への警告映画です。

大きな建物やトレーラーが、大量の虫で、崩れ落ちるように破壊されていくCG映像に見入ってしまいます。
「K−20 怪人二十面相・伝

ストーリーも、登場人物も、戦後間もない時代背景も、人情味の厚い、泥棒長屋も、なかなか面白かったです。はめられて怪人二十面相にされてしまったサーカス団の青年が、泥棒長屋に伝わる秘伝書をもとに技を磨きます。かって、二十面相も、この書で鍛えたのだというのです。

怪人二十面相の正体を知ったら、きっとだれもが驚くことでしょう。
「地球のへそ」

2057年。京都がパスポート不要の自由往来特区に指定されたため、京都は外国人の町になってしまいました。タクシーの運転手も警察官も、踊りのお師匠さんも、お寺の坊さんも、みんな外国人です。舞台挨拶があって、この映画ができたいきさつはわかりました。日本に定住している主演男優さんの家に行った監督さんが、スリランカ人の彼が日本人以上に日本人らしい暮らしをしているのに驚いて、立場を入れ替えたら面白いだろうと思ったからだそうですが、それがなぜ地球のへそなのか、いまいちわかりませんでした。「第2弾は制作費がない」という監督さんに、「制作費はいくらぐらいですか」ときいた人がいました。返事は「車2、3台分」。これがまたあいまい。

地球のへそが京都というなら、昔、京都のへそは、六角堂のへそ石のあったところのようです。それもとりあげてくれると面白かったのにと思いました。
「能登の花ヨメ」

けがをした未来のお義母さんを看病しようと、海外出張の婚約者のかわりに能登まで出かけた主人公は、こきつかわれることになり、こんなはずではなかったとたんかを切ってしまったのですが……。東京育ちがいなかのよさを感じていくまでの物語です。能登の震災もうまく取り入れていますが、キリコという祭りのことは、うまくいきすぎで、ちょっとうそっぽかったです。

お義母さん役の泉ピン子さんも自然でしたが、気がついたらいつも食卓にいる内海桂子演じる隣のおばあさんがなかなかいい味でした。
「画家と庭師のカンパニュ」  130

挫折感を抱えて田舎に帰ってきた画家のところにやってきた庭師は、小学生の頃いっしょにいたずらをした仲だったのです。都会で成功した画家は、いなかで地道に暮らしてきた庭師のために自分で築いた人脈で援助します。庭師は画家のために、自然とともに生きるすばらしさを教えます。ふたりの会話のかりとりがなんともいいです。

「おれの好きなものを絵を描いてくれ」と言い残した庭師のひとことで、画家の画風が変わります。別居中の妻との間も好転していきます。友情っていいな。
「ああ、結婚生活

30年連れ添ったはた目にも仲のいい夫婦がいます。会社の重役の夫に、こともあろうに結婚したい愛人ができたのです。(女房はおれを愛している。別れるなんていったら苦しませるだけ。いっそ毒殺してしまおう)というとんでもないことを思いついた夫。妻は妻で、(夫にはわたししかいない。だから別れることはできない)と思いつつも、ちゃっかり浮気をしています。

ふたりの間に入って相談にのることになったのが、夫と子どものころからの親友リチャードなのですが……。彼は親友の愛人に横恋慕します。他人の不幸の上に幸せを築いても、良心が痛むだけだといって。この結末は、いったいどうなるのでしょうか。

敗戦後、日本人があこがれたであろう1940年代の家具やファッションが、よき時代のアメリカを物語っています。そういえば先日、とんびというマントを羽織っている男の人を電車で見かけました。バランスが悪いのはあながち洋服だったからではなく、シャッポーを被っていなかったからかもしれません。中折れ帽を粋に被れる男性って、それだけで素敵です。
「ブラインドネス」

ある日、突然、何の前ぶれもなく目が見えなくなる。そんな事態が起こったら、そして、それが原因不明の伝染病だと判断されたら、世の中はどんな状況になるのでしょう。視力を失った者は強制的に隔離収容されてしまうのですが、看守たちの疫病神でも扱うようなひどい待遇の中、隔離された人々にも本性が見えてきます。

視力を失った夫に付き添いたいため自分も見えないと偽って隔離病棟に入った妻がいるおかげで、第一病棟はなんとか秩序を保っていたのですが、第三病棟に独裁者が現れ、銃を片手に全員の食料を管理してしまいます。そのため悲劇がはじまるのですが……。

悲惨な映画でしたが、終わり方は悪くないです。
「WALL・E/ウォーリー」

700年間も、たったひとりで働きずめのポンコツロボットのウォーリーと、宇宙からやってきた最新型ロボットのイブ。ほんのり芽生えたウォーリーの恋心をモチーフに、環境問題を子どもたちにもわかるように楽しく取り上げたいい映画だと思います。鑑賞後、親子で環境問題を話し合えるいいチャンスではないでしょうか。

汚染された地球から宇宙ステーションに逃れたものの、食っちゃ寝状態でただ生き伸びているだけの人間たちの体は退化しています。しかし、逃げているだけでは問題は解決しないのです。ここでもコンピューターの頭脳が人間を支配しようとします。

地球の破壊が近未来という映画が多い中、29世紀という設定が救われました。ごみの圧縮作業をしていたウォーリーのコレクションが、なかなかおもしろかったです。
「この自由な世界で」

安い賃金で移民を労働させる斡旋所で働いていたアンジーは、新たに自分で立ち上げることになります。シングルマザーの彼女は、学校で問題を起こしがちな息子のためにも斡旋所を大きくしたいという夢がありますが、その夢と引き換えに、大切なものを見失い始めます。共同経営者でもあるルームメートのアドバイスも耳に入りません。

アンジーの強引なやり方を通じて、イギリスという自由な世界で搾取されつつ働かざるをえない移民の苦しみと不安が伝わってきます。自由な世界で不自由な暮らし……。うまい切り口だと思いました。
「マルタのやさしい刺繍」

「縫い残した未来が輝きはじめる」。なんていい言葉でしょう。

夫に先立たれ落ち込んでいる80歳のマルタが再び元気になったのは、結婚であきらめていた若いころの夢の続きを再開することでした。ランジェリーを作るというマルタの夢は家族や保守的な村人から軽蔑の目でみられ、反対されます。でも、その夢を支えてくれる親友たちに支えられて花開いていくのです。そしてそれは、その親友たちをはじめ、老人施設の刺繍クラブの人たちの老後をも応援することになるのです。情けは人のためならず。おばあちゃんパワー万歳!
「ハッピーフライト」

飛行機のフライトを支えるために様々な職種の人々がかかわっています。すべて、キャリアを積んだ専門家ばかりです。あらゆる角度から万全を尽くしてフライトするのですが、それでも、飛行中アクシデントは起こりうるのです。起こったときどう対処するかがハッピーフライトにつながるかどうかの分かれ道になるのです。自動操縦になったとはいえ、最終的にはパイロットの的確な判断と技術が決め手なのですが……。

サスペンス映画のように手に汗を握りました。無事着地したといっても、乗客を不安にさせた飛行は、果たしてハッピーフライトだったのでしょうか。この映画を観て、安心して飛行機に乗れるか、はたまた飛行機は怖いと思うか、二派に分かれるような気がします。わたしは……。
「レッドクリフ パート1」

エキストラの数の多さに、まず驚きます。さすがというか、圧巻です。天下統一の野望だけで攻めてくる敵は80万余。こちらの兵のわずかに2万。しかも古い形式の訓練しかしていません。どうみても不利です。勝ち目はないのでしょうか……。古くから伝わる八卦という作戦がとてもおもしろいです。民のことを思う名君を支える名武将たち。量より質。史話なんでしょうが、ちょっとうまくいき過ぎる物語です。
「Xファイル 真実を求めて」

そもそもXファイルとは、FBIの綿密な科学捜査でも解決できない未解決事件のレポートのことをいうそうです。その解決を透視能力者に頼ることを是とする者と、現実をみようとするもの、いずれにしても解決までの過程は興味のあるところなのですが、おぞましい事件と結びついていくのが、事件が解決しても心地のよいものではありません。
「ブタがいた教室」

「ブタを飼って、大きくなったら食べよう」という先生の提案は、命をいただくという大切なことを教えるためだったのですが……。Pちゃんと名づけられたブタは、いつしかクラスの仲間になっていきました。卒業が迫っています。このブタを食べるか、食べないか、子どもたちの意見はふたつに分かれます。13対13。「先生、まだ投票してないよね。先生も6年1組の一人なんだから」と決断をゆだねられた星先生は……。

結末は意外でした。でも、これでよかったんだという思いが、あとからじわじわ押し寄せてきます。たくさんの子どもたちと先生に、ぜひ観て欲しい作品です。

26人の子どもたちと、妻夫木聡演じる星先生のやりとりが、とても自然でよかったです。
「ベティの小さな秘密」120

父親は精神病院の院長をしていて、ベティ一家は、その裏にある屋敷に住んでいます。両親は不仲。お姉ちゃんが寄宿舎に入ってしまったので、頼りになるのは家政婦として手伝いに来てくれているのは患者のローズ。ローズは心に闇を持っていてひとこともしゃべりません。ベティには、心配事を相談する相手がいません。

べティという愛称で呼ばれていた10歳の少女が、「これからは、あたしのこと、エリザベスと呼んで」というまでの成長物語です。それにしても、屋敷の暗さ。わたしがベティのお母さんでも町に飛び出したくなります。
「ハンサム★スーツ」

スーツを着るだけでハンサムになれるなんて。ぶさいくで、日ごろ辛い思いをしている琢郎にとっては、夢のような体験です。なにしろ若い女の子にめちゃめちゃもてるのです。スーツの試着期間が終り、決断しなければなりません。もし、これからもハンサムスーツを着るなら、もう元の琢郎に戻ることできません。杏仁という人気者のファッションモデルとして別の人生を歩むことになるのです。琢郎は、ハンサム人生を選びます。が……。

美人のひろこちゃんと、ブスのもとえちゃんの外見が似ていないのは当然として、ひろこちゃんには、もとえちゃんの温かさが皆無です。ブスのもとえちゃんの方が、だんぜん魅力的なのです。そこがなんとも惜しい……。ねたばれになるので、これ以上詳しく書けないのですが。
「まぼろしの邪馬台国」

妻和子の少女時代から始まる物語に、初っ端から引き込まれてしまいました。竹中直人演じる宮崎康平の経営者としてのワンマンぶりも見事なら、ひたすらに卑弥呼のいた邪馬台国の存在を信じ疑わない心は、執念というより、天才的才能なのかもしれません。ふたりが歩んできた道のりは夫唱婦随、二人三脚という言葉がぴったりの人生です。

日本という国の美しさとともに、(吉永小百合の口からでる)日本語の美しさを再発見しました。
「イーグル・アイ」

コンピューターが意志をもったらどうなるのか……。威圧的で絶大な見えない力に翻弄されつつ、指示に従うしかない人間は、果たして勝つ事ができるのでしょうか。英語が全くわからないわたしは、字幕を見ながらストーリーを追っているのですが、主人公(ジェリー)の畳み込むような歯切れのいいセリフが、なんとも耳に心地がよく響きました。

主人公には、優秀なふたごの兄がいるのですが、その兄への想いが、物語を深くしています。
「蛇にピアス」

主人公と、恋人アマ、彫り師シバの実在感がばっちりありました。恋人アマとは、いいかげんな関係のように見えたのですが、彼が死んだ時の喪失感から、ほんとうに愛し合っていたのだという思いが伝わってきました。殺したのは……。それがわかったところで、アマはもう帰ってこないのです。本名さえ知らない相手と生活を共にできるのは、純粋だからなのでしょうか……。

この小説が芥川賞を受賞したときのコメントに、作家である父親から、もっと書け、もっと激しく体験したことをとことん書けといわれたと金原ひとみさんがいっていたのを思い出しました。
「宮廷画家ゴヤは見た」

教会が権力を持つあまり、内部が腐敗していた時代のことです。聖職にありながら欲望のため何の罪もないひとりの良家の娘を異端審問所に突き出した神父は、彼女を拷問の上、嘘の告白をさせ、過酷な運命を押し付けるのです……。家族は教会へ多額の献金をしたにもかかわらず、娘を返してもらえませんでした。ナポレオンが攻めてきて、革命がおき、やっと娘は牢から開放されるのですが……。哀れな様子は、「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」の妻を連想します。

神父が最後、自分の信念を曲げなかったことが、せめてもの救いでした。ゴヤは、さしずめ時代の証言者というか、物語の語り手といったところでしょうか。
「ブーリン家の姉妹」

ふたりの娘たちを出世の道具だと思っている父親は、兄にそそのかされ長女を王の側に仕えさせ、家を繁栄させようとします。ところが王は美しい長女より、心優しい次女に目をつけます。といっても次女はすでに夫がいる身。不謹慎どころか、夫も立身出世のためオーケーするという時代です。面白しろくないのは長女です。王の愛を自分に向けるために妹だけではなく、王妃まで追いやってしまします。その結果……。

長女の産んだ女の子は、のちのエリザベス一世となるひとなのですが、エリザベスと共に育った本来なら世継ぎになるはずの次女が産んだ男の子は、どんな生涯を送ったのか、気になるところです。
「センター・オブ・ジ・アース」 

最初から最後まで、わくわくどきどき、地球の中心にいっしょに旅できる楽しい楽しい冒険映画です。子どもたちにもぜひ見せたいのに、字幕スーパーしかないというのが、残念です。なぜ。
「P.S. アイラブユー」

予告編で想像していたより、うんといい映画でした。夫の死で生きる気力を失ってしまった主人公が、少しずつ元気を取り戻していく様子が描かれています。最後の決め手は、結婚で中断していた自分の夢にたどりつく……。これは、「最後の初恋」と同じです。

「最後の初恋」ではノースカロライナの自然なくしては映画の魅力は半減でしたが、この映画でも、夫の故郷アイルランドがたまらなく素敵でした。失恋後、「わたしにはターナ(土地の名前)がある」と大地を叩いていた「風と共に去り」のスカーレット・オハラを思い出します。自然の力は偉大です。
「わたしがクマに切れた理由」

川向こうのセレブなおくさまたちは、慈善事業やパーティや買い物などで忙しく、子育てをしないで子守(ナニー)を雇うのが常識です。大学を出ても何になりたいのかわからないアニーは、ふとしたことがきっかけで楽な仕事に思えたナニーになるのですが……。雇い主のなんと傲慢で身勝手なこと。挙句の果ては一方的に辞めさせるお決まりのコース。やめるにあたって、アニーは、クマのぬいぐるみに仕掛けられた監視カメラに向かって説教を始めます。

最終的にアニーは就職することをあきらめ大学院にチャレンジするのですが、将来どんな仕事につくのかがみえないままで、残念な終わり方でした。ナニーつながりでしょうか、メアリーポピンズがちらちら見え隠れしています。
「宿命」   110

学生時代大の仲良しだった心身ともにはつらつとしていた5人組の若者が、なぜ、揃いも揃って裏街道を歩んでしまうのか……。鉄棒を片手の激しい暴力シーンばかりで、うんざりしましたが、それでも最後には、5人の性格、抱えている問題、価値観などがじわじわ伝わってきました。モノクロ映画を観ているようで、色の残像がありません。
「最後の初恋」

アーチストとなる夢をあきらめ、ひたすら家族の幸せを願って生きてきたのに、夫に裏切られ、娘に反抗される日々。それでも家族のために生きるべきのか、選択を迫られていた時に出あった人は、偶然というよりも運命的な出会いだったのでしょう。お互いに慈しみ、高め合える相手がいる素晴らしさ。手紙のやりとりで、ますますお互いに必要な人だと思いは深まっていきます。「最後の恋」ではなく、「最後の初恋」というタイトルは深いです。打算もかけひきもなく、魂が求め合う恋。

果てしなく広がる海の向こうにあるノースカロライナの海辺の町が素敵です。主人公が、幻かと目を見張る最後のシーンが感動的です。ふたりで見ることができたなら……。
「フレフレ少女」

廃部寸前の応援団に入部した桃子をはじめ、あとの3人も負け組みばかり。規定人数の5人は揃ってはみたものの、なんともみっともない応援振りで、野球部からは、「応援にこないでくれ」といわれる始末です。

意気消沈しているところに、やってきたのは大先輩の団長。「相手チームの力が10で、こっちの実力が5しかないとき、気合で相手の力を7に落とし、こっちの力を8にすることができる。それが応援の力というものだ」と合宿に連れていかれるのですが……。

人の持っているパワーとは何ぞや。「気合」が勝負を左右する……?
「イキガミ」

何の前触れもなく「余命一日」という国からの通知が一方的に届きます。それが「逝紙」です。子どもたちが入学時に受ける予防接種の中に、千人にひとりの確立で、18歳から24歳になれば、自動的に心臓が破裂して死に至るカプセルが入っているのです。

国家の繁栄のためだというのですが……。「人生最後の24時間、あなたはだれのために生きますか」という宣伝文句や、予告編を見ただけでは汲み取れなかったのですが、国家に思想をコントロールされるとても怖い映画でした。
「トウキョウソナタ」

幸せそうな一家がいます。一戸建てに住む会社員の夫と専業主婦の妻、大学生と小学生の息子。それぞれの身に起こった思いがけないアクシデントによって、4人は、平凡で穏やかな日常とはかけ離れたところまでぶっとばされてしまいます。

アメリカ軍に志願した長男に懲りた夫は、自分の身の上に起こった出来ごとの苛立ちも加わって、次男を押さえつけようとします。それに反抗する次男。長男から、「お母さん、離婚してしまえば」といわれてしまうほど自分を失ってしまっている空きの巣症候群の妻。ひとつの塊(カタマリ)のはずだった家族は、実は、それぞれの色を持つ個々の集まりでもあったのです。

家族という扇の要になっているものは、いったい何なのか……、幸せとは何なのか、考えさせられます。
「容疑者Xの献身」

ある結果を仮定して立証していくのが物理なら、ひとつの答えに向けて解いていくのが数学というものらしいです。

愛する人たちが起こした殺人事件を数学者は、隠匿しようとします。刑事の長年の勘で容疑者が誰かわかっていても、なかなか証明できません……。それほど、命を賭けて愛する人を守ろうとした天才数学者が作ったアリバイは完璧なのです。困り果てた刑事は、物理学者に助けを求めます。物理学者は、数学者と学生時代友人だったことがわかります。事件を解く過程は、物理と同じだという物理学者は、果たして、天才的数学者が設定したこの事件を証明できるのでしょうか。

事件は解決されました。一体、どちらが勝者なのでしょうか。一見、敗者にみえた者は正当に罪を償うことで解放され、勝ち組にみえた者は、友人が必死に守ろうとしたものを突き出した思いに、一生束縛されていくのではないでしょうか。
「ウオンテッド」

血飛び肉が裂け、頭が吹っ飛ぶ殺しのテクニック、スリルとスピード感は、15R納得の迫力です。でも、この映画はそれだけではないのです。物語がなかなかうまくできていて、二転三転……。見ごたえがありました。映画を観ているときには、ほんの隠し味程度にしか思えなかった父親の愛……。見終わってからじわじわと心に沁みてきます。「ウォンテッド」というタイトルも、なかなか深いです。
「アキレスと亀」

何不自由ない名門の坊ちゃんだった彼は、親の破産のためすべてを失いますが、絵を描くことだけは、失わずに、熟年になってもずっと続けています。絵を描く事が好きで好きでたまらないのです。が、いくら好きでもプロの画家への道は生易しいものではありません。

売れる絵を描くために、画商のニーズに応えようといろいろな技法を試みますが、そのあたりに違和感を感じました。波乱万丈な少年時代を送ってきた彼には、内からこみあげてくる強いメッセージがあるはずで、それをテーマにすれば、人の心を揺さぶる絵が描けるに違いないのにとおもうわけで……。

それにしてもたくさんの人が衝撃死しました。少年時代には、父親・芸者・継母・絵の好きな村の男。青年時代には仲間の画学生がふたり。熟年時代には、わが娘。その死がストーリーを面白くするためだけのもので、何の意味もなかったのでしょうか……。
「アイアンマン」

親の遺した兵器産業を継いだ彼は、次々威力のある新兵器を開発して、その名を轟かせていました。新兵器を売り込みに行った先でゲリラに襲われ、捕まってしまいます。彼は、隠匿された大量の自社の兵器を見て、自分の仕事が、間違っていたことに気がつきます。彼は自分の会社の方針を、平和産業に切り替えようとしますが……

一言でいうと、敵と戦う変身ヒーロー物語なのですが、そのほんとうの敵とは……。

親が大金持ちで、その企業を継いで……、変身。バッドマンと設定がよく似ています。
「パコと魔法の絵本」

不可思議な人たちが入院している不可思議な病院がありました。入院患者のひとりに、場違いなかわいい少女がいました。事故の後遺症で、一日経てば昨日のことは忘れてしまうという少女が、毎日欠かさず読んでいる絵本は、『がま王子』。七歳のお誕生日に、「毎日読んでね」というメッセージと共に、ママがプレゼントしてくれた大切な本です。「がまの王子はわがまま王子……」と毎日、毎日、飽きもしないでくりかえし読んでいます。

自分の世界が一番大事で、それに縛られていた患者たちが、少女のために動き出します。人が死ぬ前に作動するという病院の室外機。いったいだれが死ぬというのでしょうか……。
「おくりびと」  100

納棺師という職業があるとは、驚きでした。何よりも、遺族の前で、亡くなった方の肌を見せずに体を拭い、最後の旅立ちのために着替えさせる所作の美しい流れに、死者への慈しみと尊厳の念を感じました。そういうしきたりの残っている地方がうらやましいです。それでも、蔑まれる職業のようなのです。

物言わぬ亡くなった人を白装束に着替えさせているわずかの間に、死者の人となりと家族の関係がわかっていきます。すべての登場人物のドラマが見事に描かれていました。主人公の根底に流れるものは、父親への不信でした。顔を思い出すことも出来なかったのですが……、子どもの頃に使っていた小さなチェロと石ころ。無理のない設定がよかったです。

山形県酒田市の風景の美しさもさることながら、チェロのやさしい音色、木本雅弘の静かな語り、山崎努の存在感すべてに癒されました。
「アルビン/歌うシマリス3兄弟」

売れないソングライターの元に、3匹のシマリスがやってきます。シマリスだけがアニメーションなのですが、実像の中に違和感なく見事に納まっていました。3匹のシマリスも可愛かったし、音楽も軽快なのですが、少しもわくわくして来ないのです。それは、ヒット曲を出したシマリスがレコード会社の儲け主義の男に引き取られ、まだ子どもだというのに、酷使されるからだと思います。最後はシンガーソングライターも元に帰って3匹が望んでいたように家族として迎えられるのですが、それがハッピーな結末なのでしょうか
「グーグーだって猫である」

東京は吉祥寺の町で暮らす売れっ子漫画家麻子の日常を、アシスタントなど彼女を取り巻く人たちを交えてゆったり描かれています。小泉今日子ののんびりした優しい口調か、この映画そのものです。飼っていた猫が死んだ喪失感もうまく描かれていますが、タイトルに振り回されてしまいました。トンチンカンというか、違和感があります。このタイトルのために、映画を観終わった後、消化不良を感じました。

麻子さんの力となった猫は、グーグーよりサバ……。
「デトロイト・メタル・シティ」

本来の自分と虚構の自分。どちらがうそで、どちらがほんとうなのか……。自分の意志とは別に、どんどん引っぱられていってしまった虚構の世界。落差があればあるほど本人の悩みは深いのです。

大分のいなかで育った素朴で心優しい青年がいつの間にか、極悪非道を歌うデスメタルバンドの教祖ともいえる歌手にならされていたのです……。「こんなのぼくじゃない!」と本人は苦悩しているのですが、その存在を支えに生きづらい世の中を乗り越えているファンもいるのです。そこで彼は……。だけど、彼は……。
「幸せの1ページ」

「人生なんてたった1行で変えられる」。このキャッチコピーに、くらくらっと来ました。

人気冒険作家の彼女は、極端な潔癖症で、しかもアパートのドアから一歩も外に出られないという極度の引きこもりです。締め切りが2週間も過ぎたのに、次の作品のめどが立たなくあせっていました。そんな彼女の元にSOSが届きます。海洋研究家の父親と孤島で暮らしている少女からでした。

タイトルやキャッチコピーからいっても、冒険作家が主人公ですが、わたしは、孤島の少女に添って、はらはらしながら島でも暮らしを楽しみました。これは、ぜひ、子どもたちに観て欲しい映画です。それなのに、吹き替えバージョンがないのは、なぜでしょう。惜しいです。

本の主人公アレックス・ローバーと少女の父親を演じていた俳優が同じということろが、なかなか妙味です。
「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」

冒険ものはわくわくしますが、それが2000年前の中国がからんでくるとなると、更に興奮してしまいまいます。兵馬俑と万里の長城との史話がうまく噛みあっていて、なかなか面白いストーリーの展開になっていました。

それにしても中国を統一した始皇帝は、かなりの暴君だったようです。
「セックス・アンド・ザ・シティ」

コラムニスト・女性社長・主婦・弁護士4人の美しいニューヨーカーたちの生活はリッチで、優雅で、それぞれにスリリングです。それでも、自分の生き方、不妊、家族関係に葛藤を抱えていますが、なんといっても、物語の山場は……。最後の独身貴族といわれているキャリー(コラムニスト)の結婚話。それを中心に物語は進展していきます。

自分のことしか考えられないうちは幸せになれないし、そうかといって、自分らしく生きないと、幸せになれないのです。
「ハンコック」

不死身のハンコックのおかげで、犯罪が激減しているのは確かなのですが、彼の行過ぎた行為で、物質的な被害も莫大。酒びたりということもあって市民の悪評が高いのです。踏切事故に巻き込まれるあわやという瞬間、ハンコックに助けられた広報マンは、彼のイメージアップを図ろうとします。そして、市民がどれだけ彼を必要としているかわからせるための策を練ります。

広報マンの妻……。意外も意外。そういうことだったのですね。
「20世紀少年 第一章」

子どもの頃、原っぱの秘密基地で書いた「よげんの書」のことをケンヂは覚えていませんでした。が、どうやら、そこにケンヂが想像で書いた20世紀最後の様々な惨事が、世界各地で起こっているらしいのです。「よげんの書」を知っているのは、9人の秘密基地仲間だけ。そのうちの二人が死因も、どうやらこのことに関係しているようなのです。ついに3人目。そして……。

「9人がこの世を救うって、だれのこと?」「マスクの下の顔はだれ?」「全員死んだの……」と消化不良のまま映画が終わりました。エンドロールで、第3巻まであることを知りました。そうえいば、これは第一章です。
「地球でいちばん幸せな場所」

両親が亡くなり、おじの工場で酷使されていた少女は、ベトナムの田舎からホーチミン市に逃げ出してきました。路頭に迷っていたところ、ホー売りの少年の口利きで花売りを始めます。一方、フライトアテンダントのランは、仕事とお金に恵まれてはいるものの、不倫の愛に、空しさと孤独を感じています。象使いの青年も、長年育てた小象との別れと失恋に、落ち込んでいます。そんな3人が偶然出会ったのですが……。

自分にとって何がいちばん大切なのか、しっかり現実を見つめていたのは、年の行かない少女でした。
「ドラゴン・キングダム」  90

歴史物というより、ファンタジーと言ったほうが適切でしょうか。時間にして、ほんのわずかの間のできことだったのが、最後にわかりますが、それは夢などでは決してなかったのです。それが証拠に……。

ジャッキーチェンやジェット・リーはもとより、将軍役や孫悟空役の俳優たちの丁々発止のカンフーの技はすごいです。ただ、ジャッキー・チェンの長髪はうそっぽいです。西田敏行をイメージしました。彼もよくこういう役つくりをしています。
「ベガスの恋に勝つルール」

派手なアクションもなければ、CGを駆使した特殊撮影もない。スペクタルでもなければ、サスペンスでもない。撮影方法はいたって平凡。でも、最高におもしろかったです。キャメロン・ディアスの魅力全開でした。思いっきり笑って、すかっとしました。ありえないキャラクターのふたりの出会いと行く末に、わくわく、どきどきしました。わたしにとっては、「イン ハーシューズ」(これも、キャメロン・ディアスでした)以来のヒットです。
「ダークナイト」

バットマンは、少年時代、観劇の帰りに強盗に両親が射殺された体験から、犯罪撲滅のため、自らを戦士として鍛え上げ、悪を成敗するバットマンとしての活動を始めました。対してジョーカーも、父親にナイフで口を両耳まで裂かれたという悲惨な少年時代を経ていますが、その体験は恨みとなって、人を殺すことに快感を覚えるようになりました(口を裂かれた理由は、時によって変わりますが)。

バットマンは孤児とはいえ、昼は大企業の筆頭株主で大富豪、ブレーンもしっかりついています。それに比べジョーカーは……。バットマン対ジョーカーの戦いは、富と貧窮、上流階級と下層階級の戦いなのかもしれません。少年だったジョーカーを慈しみ、抱きしめるおとながそばにいたら……なんて考えるのは野暮なんでしょう。そんなことをしたら、この物語は成立しなかったのですから。
「カンフーパンダ」

パンダのポーのお父さんの作るラーメンは天下一品です。「秘伝」があるからです。ポーはその秘伝をまだ教わっていません。ラーメン屋を継ぐより、カンフー戦士にあこがれているポーは、偶然にも、龍の戦士に選ばれます。なんの素養のないデブで大食いのポーが……。でも亀の老師は、「この世に偶然などない」といいます。つまりポーは選ばれるべくして選ばれたというのです。それから、龍の戦士になるための「極意」が秘められているという龍の巻物をえるために、特訓が始まるのですが……。

笑いのうちに、子どもたちは大切なことを学ぶと思います。パンダのひょうきんな動き、五戦士のシャープな動き、タイ・ランの獰猛な動き、アニメーションとしてもすばらしいと思いました。
「花はどこへいった」

アメリカ軍が散布した枯葉剤が、生まれてくる子どもたちに影響することは、よく知られています。この映画は、その実情を追跡したドキュメンタリーなのですが、一方、アメリカ兵だった写真家の夫を枯葉剤の影響で亡くした喪失感が原点でもあることや、監督自身が語り手になっているので、夫へのラブソング感も強い作品です。

死んだからといって人はどこへも行かないのです。大きな宇宙に、生きているものも死んだものも何もかもが含まれて存在していることに監督は気づき、やすらぎを得たのです。

第七芸術劇場のロビーで、村山康文さんの写真展をしていました。どの一枚も衝撃が走ります。募金も行われていました。監督自身の手でベトナムに届けられるそうです。
「純喫茶磯部」

おじいちゃんの遺産が転がり込んできたため、案の定、働かなくなったバツ一の父が、ある日、思いつきではじめた喫茶店のださいこと。最初のうちはだれも来なかったのですが、こんな人がまわりにいたら厄介だろうなと思う人たちが常連客になり……。

考えていることが見え見えの父と、そんな父に対してずけずけ物を言う娘。物語の最後は喫茶店がつぶれて、振り出しに戻っただけのように見えるのですが、この父と娘にとっては、何かが大きく変わったのではないでしょうか。大いに笑って、考えさせられました。
「ハプニング」

何が起こったのかわからないうちに恐怖の真っ只中に追い込まれていきます。すべては人間の傲慢さから起こったものだと、決して声高にいっていないのですが、でもしっかり伝わってくるように描いたすばらしい作品だと思いました。「ミスト」や「クローバーフィールド」など、環境問題をテーマにした映画はいろいろありましたが、日ごろは静かな植物が怒ればこんな事態になるのかと、たいへん興味深いものでした。
「ゲゲゲの鬼太郎ー千年呪い歌」

「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる妖怪は、どれもこもよく考えられたおもしろいものばかりですが、実写版には無理があるかもしれません。というのも、妖怪のキャラクターよりも、それを演じている役者さんが前に出てしまい、「あ、あれはなんとかさんや」「ほら、あれはあの人や」とい声があちこちから聞こえてきました。つまり、鬼太郎は鬼太郎ではなく、ウエンツ瑛士であり、砂かけばばあは、室井滋がしゃしゃり出ていて、猫娘は、田中玲奈そのものでした。
「崖の上のポニョ」

ポニョも宗介もたいへんかわいいし、宗介の家族もなかなか魅力的なのですが、作品としては、物足りない感じがしました。何よりも人間稼業を捨てたフジモトというあやしげな男と海の女神がポニョの両親だというのが解せないし、たくさんいるきょうだいの中でなぜポニョだけが特別魔法が使えるのか不可解だし、宗介と一度出会っただけで人間の女の子になりたいと願うことも、その望みを叶えることで海の怒りを沈めるというのも変だし、目の前に現れた五歳の少女を家族としてすんなり受け入れるだろうかなどと、ずっと冷めた思いで観ていました。

テーマだと思っていた海の汚染についても、解決しないままなので、とってつけたよう思えました。他の宮崎駿の作品のように、とても感動には結びつきませんでした。
「クライマーズ・ハイ」

ジャンボが消えた……。共同通信の情報を頼りに日航機が御巣鷹山に墜落したことがわかるやいなや、特ダネを狙って各社の競い合いが始まります。群馬の地方新聞社は地元ということもあって、取材にいっそう力が入るのですが、同じ社内でも派閥があり、スクープの邪魔、紙面争い、かけひき……、社の方針というよりも、ワンマン社長の価値観に影響されることもままあります。自衛隊の活躍を一面にとりあげることが問題になったり、政治がらみの配慮をしなければならなかったり、新聞が刷り上るまでの苦悩を日航機墜落に絡ませて描かれてます。

1985年当時は、山の中から新聞社へ情報を伝える通信手段が十分でなかったということに驚きました。

ダブル・チェック。それにこだわったために、事故原因のスクープを掲載しなかった主人公の姿勢は新聞社への信頼につながるのかもしれませんが、「事故の原因は○○の故障か……?」という疑問系で、いち早く情報を読者に知らせるのも、新聞社の役目かとも思いました。

クライマーズ・ハイというのは登山用語ですが、登山がらみで、友人・家族・仕事についても描かれています。
「西の魔女が死んだ」  80

学校に行かないことを選んだ少女は、おばあちゃんが住むいなかに預けられます。おばあちゃんとの暮らしはうまくいくように見えたのですが、最終的に少女は、「おばあちゃん大好き」といえなくなったまま、おばあちゃんと別れることになります。本では読み取れなかった切なさを感じたのは、おばあさん役のサチ・パーカーさんの力なのかもしれません。少女は、おとなになっても、「おばあちゃん大好き」と言えなかったことを負い目にしながら生きていくことになるのだと思うと、胸が痛みます。

「自分で決めなさいと言っときながら、おばあちゃんは自分の思う方向に、わたしを引っぱっていこうとしているのね」。少女の言葉は鋭いです。それがおとなの本質です。いかに正しいことでも、ひとつひとつ段階を経ないと受け入れなれないことが、少女の立場からいえば、たくさんあるのでしょう。ゆっくり、ゆっくり……わかるときまで待つ。魔女ですらできないのですから、普通人のわれわれには、とても……です。
「ミラクル7」

ボロは着てても心は錦……とばかり、貧しい父親は、ひとり息子に言いきかせます。「いかに貧乏でも、正しく生きねばならない」と。その父親がかなり無理をして、息子を私立小学校に通わせているのですが、なぜ? といいたくなります。ゴミ捨て場からいろいろな物を拾って身につけさすので、「くさい」といわれたり、「成績がいまいち」だったりして、先生やお坊ちゃまグループにいじめられます。そんなときに父親が拾ってきたのが、ミラクル7。どうやら宇宙人のようなのですが、しかし……。ミラクル7の力を借りないと、現状を打破できないということに、つまんなさを感じました。
「花より男子 ファイナル」

「ありえないつうのっ!」と、ときどきヒロインがいうように、原作がコミックなので、ありえない設定や価値観も多々あったものの、けっこう面白くって、楽しむことができました。F4のキャラクターを演じていたそれぞれの俳優さんたちも、なかなかよかったですし、主人公のつくし役の井上真央も、違和感がなかったです。出演者たちの勝利かも。

ただ、無人島での生活で、ふたりがお互いに足りないところを補え合える必要な相手だという確認エピソードがほしかったです。ネックレスの紛失で愛を再確認するだけでは物足りなかった……かな。
「ぐるりのこと」

まじめな妻がひどい「鬱」になっていく過程と回復していく過程が、夫婦やその家族やそれぞれの仕事をからませながら描かれています。それにしても、さまざまな職業が出てきます。出版社・靴修理業・不動産屋・町の食堂・吸角師・法廷画家・報道記者・尼さん・日本画家……。特に夫が、転職した法廷画家という職業を興味深く観ました。90年代の大きな事件の裁判シーンが次々出てきます。人間性が問われるシーンです

何もかも決めた通りにしないと気がすまない扱いにくい妻と、いいかげんに生きている夫を木村多江とリリー・フランキーが好演していました。
「奇跡のシンフォニー」

12年間も、お互いの存在さえ知らない両親と少年をつなぐのは、少年の体の中に存在している音への思いだけです。絶対音感って、音楽の教育を受けなくても両親の遺伝子として、すでにドナの中に潜在しているものなのですね。風の音も、足音も、地下鉄の騒音も、クラクションも、ボールをつく音も、少年にとっては、すべて旋律となって心に響いてくるのです。モーツアルトも、さもあろうかと思っていたところ、後半、「彼は神童なの。モーツアルトのように」というセリフが出てきて、やっぱりと思いました。

不可能を可能にしていく物語の展開は、おとぎ話そのものです。無垢の心になることができる、魂の映画でした。少年のママ役の女優さんも、パパを演じた俳優さんも、素敵でした。
「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」 

スカルを戻したものには神秘の力が与えられる……と言う伝説がが真実なら、いったい、だれがその力を与えられたのでしょうか。スカルを戻したと思われる人間は三人います。インディ、謎を究明したオクスリー教授、はたまた実際にスカルを自らの手であるべき場所に戻したイリーナ……。謎を残したまま映画は終わりました。

インディの中折れ帽子が、いろんな場面で活躍しています。特に最後のシーンで、若いマットが被りそうになったとき、世代交代のための彼の登場だったのか……と思ったのですが、間髪を入れず、インディ本人が奪うように被ってしまいました。次作も、ハリソンフォードが、がんばるのかな。

安心して楽しめる冒険映画で、スペクタル映像も素晴らしいのだけれど、100パーセント娯楽映画というか、あとになってつくづく考えるポイントや、心に残るものがあるかといえば……。
「幻影師 アイゼンハイム」

マジシャンの望みは、名誉でもお金でもありませんでした。再びめぐりあった幼ななじみの恋人といっしょにいたい、ただそれでけでした。恋人を殺した暴君の皇太子の手から逃れるために、最後に見せた大技。フラッシュバックしていく数枚のシーンで、すべてがわかります。うーん、そうだったのかとその結末に、ただただうなりました。あわれなのは、いったいだれだったのでしょうか……。
「DIVE!!」

つぶれそうなスイミングクラブの運命をかけて三人の少年が、飛び込み台から10メートル下の水面までの1.8秒を競っています。DIVEは個人競技です。でもひとりぼっちではないのです。三人三様、どの少年も応援したくなります。

ダイアモンドの瞳をもっているとはどういうことなのでしょうか。また、コンクリートドラゴンとは……。
「JUNO」

16歳のジュノは、たった1回のセックスで妊娠してしまいます。堕胎を考えていたのですが、胎児にも爪があるという話をクラスメイトに聞いて、産む決意をします。打ちあけたときの両親の反応が、見習いたいほど大らかで、温かいものでした。「きっと、ありのままのジュノを愛してくれる人にめぐり合えるから」とお父さんはいってくれました。出産を決心したジュノは、自分がどうするべきか、自分で考え、行動します。ジュノほどウイットに富んだ勇敢な少女はいません。せりだしてくるおなかをみんなが好奇で見る中、いつもジュノの顔を見て話してくれたのは……。また、ジュノに何でも話し合える女友だちがいるという設定も、なかなかよかったです。

「あたしたち変わっているから、順序を間違えたのよね」。ジュノの元気がみんなを勇気付けてくれると思います。人生、いろいろあっていいんじゃないのと思える作品です。
「つぐない」

姉の恋愛を垣間見た少女がとった行動の、なんと無知で、浅はかで、残酷なことでしょう。本人が、大人になればなるほど、その過ちの重大さに気づいて、悔いても悔いきれないほど悩みぬきます。彼女は少女の頃の過ちを、どのような形で、姉とその恋人につぐなうのでしょうか。

物書きの端くれとしてのわたしの感動を記したいのですが、控えます。それは、ストーリーにふれることになり、これから映画を観る人の楽しみを奪うことになるからです。
「ザ・マジックアワー」 70

理屈抜きにおもしろいです。くす、くす、くす……どれだけ笑ったことでしょう。何がおもしろいのかといわれると、もちろんストーリーの発想と展開なのですが、その物語を運んでいくキャラクターの設定の素晴らしさに尽きます。またそれを演じていた俳優さんたちは、まさに適役。中でも、売れない俳優役の佐藤浩市は、光っていました。演技とがいえ、本物のギャングが惚れ込む度胸の良さっぷり。予告編で何回も観たナイフをなめるシーンは、幾通りもバージョンがあり、そのつど、笑い転げました。

エンドロールで、パラダイス通りの三叉路を組み立てていくシーンを見て、ただただすごい! セットとは思わなかったので驚きました。オーストリアの郊外にこういう通りがあったので、てっきりロケだと思っていました。
「幸せになるための27のドレス」

「花嫁が幸せになるための演出」が自分の生きがいなのだと思い込んでいること。そのために我慢しているあれこれ。「ノー」といわない(いえない)性格……。そんなこんなが、ジェーンをがんじがらめにしています。ジェーンにも片思いの相手がいます。突然やってきた妹が、あの手この手を使ってその相手をかっさらおうとします。それでも平気をよそおっているのですが……。彼女が幸せを見つけるまでの物語です。

それにしても、花嫁を盛り上げるために花嫁の友人が付き添いをするって、ほんとうにすてき習慣です。みんな楽しそう。
「ジェイン・オースティンの読書会」

愛犬を亡くした友をなぐさめるために始まったオースティンを読む会なのですが、6人のメンバーが、「エマ」、「マンスフィールド・パーク」、「ノーサンガー・アビー」、「自負と偏見」、「分別と多感」、「説得」のうちの一冊を受け持ち、当番の家でワインと料理を楽しみながら、読書会を開きます。会を重ねるうちに、それぞれの心を傷つける個人的な悩みや問題が起こります。オースティンは人生最高の解毒剤だというのですが……。

図書館ですてきなパーティも度々開かれます。アメリカ人の本の楽しみ方は、人生を楽しむことにつながっているのですねえ。うらまやましいと思いました。それはともかく、本(読書)が人に与えるパワーは、コンコンと湧き出る泉の如し、です。
「かって、ノルマンディで」

ちょっと珍しい映画でした。30年前に製作された映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害しました』(実際にあった事件)に出演したのは俳優ではなく、ノルマンディー地元の農民たちでした。それは、変わり映えのしない毎日を送っていた農民にとって、胸躍るできごとでした。それから30年が経ち、その映画に出演した農民たちの消息を訪ね、インタビューしているものが、映画になっています。
「ナルニア国物語 第2章 カスピアン王子の角笛」

ファンタジーへの入り方と出方が自然で、違和感がまったくありませんでした。すんなり、でも素敵に。

ピーターたち4兄弟は、かって、ファンタジーの世界に迷いこんで、白い女王をやっつけ、名君としてナルニア国を治めていた国王と女王であったのですが、今は、ロンドンで学生生活を送っています。ある日、カスピアン王子が吹いた角笛の魔力で、再びナルニア国に送り込まれてしまい、崩壊寸前のナルニア国を救うべく立ち向かうことになるのですが、4人の兄弟(兄・姉・弟・妹)の性格・年齢の違いが、物語を楽しくさせています。
「山のあなた  徳市の恋」

前記の「按摩と女」の完全カバーなのですが、そっくりそのままなのが、かえって新鮮な感じがしました。感覚的には、字幕版と日本語版の違いという感じです。カラーでしたが、雰囲気を全然壊していませんでした。

海の温泉場から毎年山の温泉宿に流れてくる按摩徳一の意地と心意気がよく伝わってきました。按摩仲間の福市の存在もなかなかよくて、彼のおかげで徳市の聴覚の素晴らしさと勘の鋭さが特別だということが無理なく描かれていました。もう1人の主人公である「女」を演じていた女優の雰囲気と台詞回しが、「按摩と女」の高峰三枝子にそっくりだったのに、驚きました。

完全カバー版ということですが、「按摩と女」には、なかったと思えるシーンが何箇所があって、その発見も楽しめました。エンドロールはあったのですが、かなり短か目だったことや、温泉宿の情緒豊かなシーンが背景に流れていて、観客のだれも席を立ちませんでした。
「按摩と女」

ゆったりと時が流れている感じがして、とても心地がいい映画でした。モノクロというのは、こんなにも想像力をかき立てるものなのでしょうか。

音楽もモノトーンといえばいいのでしょうか、素朴で、耳当たりがなんとも心地よく、少しも邪魔になりません。出演者の名前も、映画が始まる前にさらりと出ただけで、長ったらしいエンドロールがないので、物語が終わると、映画もそれで終りです。実にあっさりしたもので、それも好もしいです。

映画会社の名前、タイトルなどの横書きは、すべて右から左へ流れていました。いったい、いつごろから左から右に流れるようになったのでしょう……。「按摩と女」というタイトルは原作がそうさったとしても、ダイレクトすぎると思いました。
「チャーリー・ウイルソンズ・ウオー」

ソ連の空爆を受けているアフガニスタンを助けてという要望があり、視察に行ったアメリカの下院議員は、子どもたちの悲惨な状況を知り、ソ連のヘリを墜落させることを決心します。たった500万ドルの予算しかなかったのに、人脈を駆使して最終的には億単位の予算を獲得し、ソ連打倒のための武器の調達に奔走します。実話なのだそうなのですが、個人の議員の権限でここまでできるということ自体が怖くなりました。

物語の中で、「人間万事、塞翁が馬」の故事が引用されていましたが、結果、議員の行動は「吉」とでたのでしょうか……。最後のセリフが気になります。
「今夜、列車は走る」

アルゼンチンの小さな町で、大きな出来事が起こりました。鉄道の民営化による路線廃止宣告です。鉄道で働いていた人々は、書類のサインし、自主退職という形で全員失業してしまうのです。老鉄道員だけがサインを拒否し、修理工場に残ります。それらの人々と家族の様子を捉えながら映画は進んでいきますが、生活に行き詰まり、事態はだんだん悪化していきます。

もうどうにもならないというそのときに、みんなを救ったのは……。どんな場合でも、出口はきっとあるのです。
「靖国」

靖国神社を訪れる人々の心の中は、様々です。それを頭ごなしに批判することはおかしいと、この映画が再確認させてくれました。それぞれの心の奥にある思いを大切にして、参るもよし、参らないのもよし。家族の御霊がここに祭られていることに怒りを感じてる人もいます。それも、その人の心の問題です。思想となって、国の争いにならないようにと願わずにはいられませんでした。

「靖国刀」というものがあって、今も靖国神社の境内で打たれていることも知りました。90歳だという刀匠の刀を打ち込む姿を映しながら、日本刀を日本人の心に結び付けようとしているような意図が見えました。刀匠自身は靖国刀について、黙して語らずでした。
「ミスト」 60

スーパーマーケットに買い物に来ていた人たちは、濃い霧のために店に閉じ込められてしまいます。霧の中には、恐ろしい生き物がいて人を襲ってきます。とてつもない異変が起こると、人はどんな行動に出るのでしょうか。緊急事態を理解できる人と出来ない人、人を扇動する人とされる人、結果、パニクッてしまう人……。

常に冷静に事態を判断、正しく行動していた主人公と、意見を同じくする仲間たちが、命からがら車に乗り込み、霧を抜けようと出発します。ところが途中でガソリンがなくなってしまいます。主人公は、ある決断をします。その後、霧の中から、いったい何が現れたのか……。ああ、なぜ……? なんとも切ない終わり方です。

こんな事態になったのも、すべて人間のごうまんさからなのです。
「名探偵コナン  旋律の楽譜」

パイプオルガン演奏もヴァイオリンの音色も、ソプラノの歌声も、すてきでした。アニメだということを、ふと忘れてしまいました。ストーリーは、一言でいえば絶対音感の勝利です。子どもだけではなく、大人も楽しめます。演奏時のアニメの指使い(ピアノもヴァイオリンもパイプオルガンも)、合っているのでしょうか。もちろん、合っているのでしょうね。そういう意味でも、音楽の好きな人には特にお勧めです。

最後まで席を立たないように。エピローグがおまけのようについています。
「隠し砦の三悪人」

秋月の生き残りの姫と、秋月の軍資金を奪おうと敵国が襲撃をかけてきます。3人の強者が、姫と柴の中に隠した金を、友好を結んでいる早川に持ち込むのに、敵国山名を通り抜けていく作戦をとるのですが……。道中、姫は、たくさんの民が戦のために死に、あるいは貧困にあえいでいる現状を目撃し、胸を痛めます。

無勢に多勢。とうとう姫の一行は捕らえられてしまいます。4人が運んでいた黄金は偽物でした。黄金はどこに……。「民を信じなければ、いい君主にはなれません」とじいが教えてくれた言葉を、姫は試みていたのです。

長澤まさみは、姫としての気品がありました。あとは……、どこか現代風というか、モダンすぎるのです。時代劇というのは、もっと土臭い感じがほしいかなと思いました。三船敏郎の「隠し砦……」観てみたいです。
「最高の人生の見つけ方」

病院のベッドでときたま隣り合わせたふたりは、どちらも余命6か月。片や大富豪の離婚歴4回の男と、片やまじめな家族思いの自動車修理工。人生観が全く違うものの、余命6か月という宣告を受けた状態は同じ。病院を抜け出して棺おけリスト(死ぬ前にしておきたいこと)をいっしょにクリアーしていくことになるのですが……。

病気にさえならなければ、知り合うこともなかったふたりが人生最良の友となるまでの物語。
「スパイダーウィックの謎」

理由(わけ)あって、大叔母さんの住んでいた古い屋敷に引っ越してきた一家(母・姉・双子の兄弟)は、険悪な状態です。こんな所へ来たくなかったというふたごのひとりジャレットが、ふてくされていることが原因のようです。ジャレットは屋根裏部屋で「絶対見るな」と封印された本を見つけました。「絶対見るな」といわれて見ない少年なんているわけありません。本を開いたために、たいへんなことが起こるのですが、日ごろから悪がきのジャレットのいうことなんか、だれも信じてくれません。

ふたごはひとり二役。「チャーリーのチョコレート戦争」の少年です。性格の違うふたごをうまく演じ分けていました。
「プルミエール」

医者に頼らず、自宅で自然に生むことを選んだ世界10か国の女性たち。プールでイルカに見守れて水中出産する人もいれば、砂漠の砂の上で産む人、夫や仲間に見守られて出産する人、大きなお腹で臨月までダンスを続ける人……、文化も人種も社会的立場も価値観も違う国の人たちのさまざまな出産を捉えた感動的な映画です。折りしも皆既月食。出産と大いに関係があるというのですが……。

赤ちゃんを抱いたとたん、陣痛にゆがんでいた顔が、一瞬にして慈しみの笑顔に変わります。どの人も、それは見事なまでにです。中には死産という悲しみや、帝王切開しなければならなかった人もいます。お母さんは、自分の命をかけて赤ちゃんを生むのです。
「アイム・ノット・ゼア」

ボブ・ディランというひとりのアーチストを、6人がそれぞれに演じています。少年院を脱走して放浪の旅をしている黒人の少年もボブ・ディランなら、フォークシンガーも、映画スターも、詩人、ロック歌手、無法者も、みんなボブ・ディランなのです。6人は、それぞれに魅力的なのですが、仕事も年齢も人種もまちまちなので、とても同じ人物だと思えません。ストーリーに脈絡がなく、フラッシュバックで入れ代わり6人がなんども出てくるので、ちょっと解りにくい映画でした。
「砂時計」

落ちた砂が過去で、これから落ちる砂が未来であるとこは確かなのですが……。砂時計は、すべての砂が落ちてしまうと、ひっくり返してまた使います。それは、過去の砂が未来の砂となって、再び過去に流れていくことでもあるのです。

砂時計の砂のように、生まれた時から現在に至るまでの過去のすべてが、その人を形成しているのです。よろこびはもちろん、悲しみ、苦悩、家族関係……。辛かった過去を隠して生きることは、結局、自分を否定することになるのです。すべてを包み込んでくれる人と人生を歩めたら、こんな幸せなことはありません。
「相棒」 

警視庁の特命係は、いわゆる窓際。ていよくそこに追いやられたふたりの刑事のひとり杉下右京は、いわば「静」。もうひとり亀山薫は「動」。頭脳力と行動力で、難解な事件を紐解いていくこのコンビ(相棒)が魅力的です。

一方的な処刑殺人の犯人探しに始まったこの事件は、謎解きの面白さもありますが、テーマは深く、観応えがありました。ふたりの刑事のほかに、片山雛子という隠し玉も、光っていました。 
「少林少女」

少林拳は戦うための武術ではなく、守りための技だそうです。1年間、特訓をうけたというだけあって、柴咲コウの少林拳は、激しく、美しく、心地よく、とても決まっていました。

戦いを挑んできた相手が、幼い頃、いっしょに学んでいた仲間で、彼が、なぜ、そうなったのかはよくわかりませでしたが、胸がスキッとするほど、楽しめました。
「NEXT」  50

何が起こるかが事前にわかる予知能力を持っているため、小さい時から嫌な思いをしてきた彼は、今は、手品師として身をごまかして生きています。予知能力といっても、2分後に起こることと、自分にかかわることだけなのですが、理想の女性に出会ったことと、核爆発テロにかかわったことで、その能力範囲が変わってきます。安心して、はらはらどきどきが楽しめます。

コロンボでおなじみのピーター・フォークが直接ストーリーには関係ない脇役で出ていましたが、作品に温かみを添えていました。
「紀元前1万年」

予告編を観て、マンモスと人間の生存争いの末、マンモスが負けて人間の時代が来る……そんな映画を想像していたのですが、全く違っていました。紀元前1万年の人間の本当の敵はマンモスではなく……。そういう意味で、ジンギスハーンとよく似ていました。巫母の予言とおりになるのでしょうか。

マンモスや恐竜(のようなもの)はCGだそうですが、まるで実存しているようにリアリティアがあって、迫力は圧巻でした。たくさんの部族も、それぞれ味がありました。
「王妃の紋章」

紫禁城の中での暮らしぶりの絢爛豪華さに目を奪われます。妃の健康のためにと王が自ら調合する薬には、微量の毒が入っていて、ひと月も飲み続けていると、やがて意識が混沌として死に至る……。それを知りつつ薬を飲む王妃のしぐさの美しいこと。王妃の父を殺し、皇帝の座に就いた夫への憎しみは募るばかりです。

戦乱シーンも見事なものですが、内戦も内戦、三人の息子を含めての壮絶な家族戦争です。
「すし王子! ニューヨークに行く」

風刺がよく効いているまじめな映画で、アクションシーンもそれなりに迫力はあったのですが、どことなく漫画チックで、よく笑いました。残念だったのは、すし対決のおすしが双方とも、少しもおいそうでなかったことです。
「クローバーフィールドHAKAISYA」

「映像にブレがあるため車酔い状態になることがあるので、妊婦や高血圧の人は注意」という注意書きを入場前にもらいました。なるほど、物語の始まりから終わりまでを家庭用ビデオで撮っているという設定になっています。なかなか面白い設定で、違和感はありませんでした。

1本のビデオに恐怖に引き攣れた顔と、数週間前の屈託ない笑顔が録画されています。HAKAISYAが何物であったかはさておき、もし、現実にわれわれを突然襲ってくるものがあるとしたら、気候の変化や大気汚染かもしれません。原子炉の破壊による影響、あるいはサリンのような毒ガスかも。いえ、もしかしたら食糧難、はたまたウイルス感染……。人生一寸先は闇です。
「大いなる陰謀」

対テロ戦略を企てて、その成功を足がかりにホワイトハウスに入ろうという野心満々の政治家。机上の空論といえばいいのか実践知らずのその政治家に独占取材をさせてもらいながらも、迎合せずに正しい判断をしようとする女性ジャーナリスト(メリル・ストリーブが好演していました)。授業を放棄してガールフレンドに現を抜かしている優秀な学生に、人生を見つめなおしてほしいと諭す教授。頑なに自己主張する学生たちは他にもいます。それぞれの立場から、火ぶたが切られた対テロ戦略を鋭くえぐっています。

将来があるはずだった優秀なふたりの学生が、戦場でみせた最後の雄姿。彼等が投げ打った命は意味があったのでしょうか。いえ、意味のあるものにしなくてはなりません。この映画を観て感じることです。どんな大義名分があっても、戦争はやってはいけないということを。
「ノーカントリー」

「情け容赦もない」とはこういうことをいうのでしょう。親切に声をかけた人さえ殺してしまうのですから、麻薬取引現場で見つけた大金を持って逃げた男を仕留めないわけがありません。執拗で無慈悲な殺し屋にだれも太刀打ちできないのです。狂っているかもしれない怖さ。しかも殺し屋は、ひどい負傷を追っても、不死身さながら蘇って、突如、現れるのです。

……事件は悲惨なうちに終り、月日が流れたものと思われます。老保安官が、妻に昨夜見た夢を語っています。そのシーンが暗転したかと思うと、いきなり映画が終わってしまったので、一瞬、「あれ」と思いました。が、うーん、なるほど、そういうことなのかと、じわじわ感じてきました。あの殺し屋は、誰に対しても情け容赦はしないはずです。保安官が夢で見た馬のエピソードは、これから起こるべきことの暗示だったのではと、わたしには思えてくるのです。
「モンゴル」

群れの中で生きていくには、暗黙のうちに定められた掟を守らなければなりません。それを破る卑怯者もいれば、公正・公平な判断で信頼を集めていく者もいます。テムジンが9歳の時、群れのハーン(長)だった父が殺されます。「大自然の神に身をゆだねろ」という父の教えを信じて、孤独の中、生き抜きます。悪戦苦闘の末、モンゴルを統一して、全世界の半分を治めたといわれているテムジン(ジンギス・ハーン)を、日本人の浅野忠信が見事に演じていました。

略奪され、敵の子を生んだ妻を心から愛し、父親の違うふたりの子どもを自分の子どもとして育てます。とはいえ妻とめぐり逢えてのジンギス・ハーンで、「ジンギス・ハーンの妻」という映画も1本撮れそうです。モンゴルの平野も、そこに生きる人の心も美しく、観てよかったと思えた映画でした。
「フィクサー」

大手弁護士事務所の裏稼業「もみ消し屋」として手腕を振るっている男(マイケル)がいます。仲間の手腕弁護士アーサーは農薬会社の巨額な訴訟問題を担当しているのですが、その農薬が生活飲料水までも汚染しているという事実を知ります。これは企業がひた隠しにしていることです。どんな手を使ってももみ消そうとする企業と、その企業を上客として失いたくない弁護士事務所。その間に入って、アーサーは精神的に参ってしまい、あらぬ行動をとります。マイケルは、友人として手を差し延べるのですが……。

正しいことを守るのは、いかに難しいことなのでしょう。後味は悪くありません。
「ドラえもん のび太と緑の巨人伝」

わたしの中で、ドラえもんがドラえもんでなくなったのは、声優さんが変わってからです。それでも、テレビのドラえもんは、おもしろいです。おなじみの町でおなじみのメンバーが、日常茶飯事的なできごとばかりを繰り返しているのですが、それぞれのキャラクターもおもしろく、いろいろなグッズが登場して楽しませてくれます。が、長編ドラえもんは、ちょっと趣が違います。物語の規模が大きいというか、伝えたいテーマがあって(今回は環境問題でした)、それが説教臭くて、「ドラえもんと子どもたち」がかすんでしまい、楽しさがありませんでした。

低学年にはむずかしいし、高学年には幼稚という感じがしました。
「ブラックサイト」 40

こともあろうに、殺人事件がサイトで生中継されるのです。最初は猫、次に人。そして、また人……。カウント数が上がって観客が増えると、じわじわ処刑がはじまるのです。FBIのコンピューター専門の刑事たちが必死に犯人を探すのですが、相手は、かなり頭のいい人間のようで、なかなか正体を見せません。無差別だと思われていた殺人につながりが見え始めたとき、捜査していた刑事までがターゲットになってしまいます。

最近、コンピューターを駆使して犯罪を起こす映画が大変多く、コンピューターに対して得体の知れない恐怖と危機を感じました。
「うた魂」

かって上映された団体青春ドラマ(?)は、ウォーターボーイズ(シンクロ)にしろ、スイングガールズ(軽音楽)・ブラブラバンバン(吹奏楽)・スマイル(アイスホッケー)、ガチボーイ(レスリング)などなど、どれもこれも、笑いあり、泣きありのさわやか青春課外活動を取り上げたものでしたが、今回は、合唱部の青春物語です。

歌うことが大好きで、自分は歌が上手だと自負している女子高校生が所属している合唱部は、正統派女声コーラスで、毎年地区代表になるほどです。仲良し3人組の部員の友情は厚く、さわやかでいい感じです。一方尾崎豊の曲を合唱で歌うヤンキー高校生のグループは、歌のうまさはほどほどですが、物語がふくらんでいく、なかなかいい役どころでした。リーダーいわく、歌はフリ○ンになって、歌うものだそうです。
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」

町のカフェレストランに置いていかれる鍵たちには、それぞれに物語があります。オーナーは、預かったたくさんの鍵を捨てられずにいるのですが、彼自身も、捨てられない鍵の思い出に縛られています。鍵を捨てるには、新しい鍵の物語がいるのかもしれません。立ち直れないほどの失恋のため鍵を預けに来た彼女に、オーナーは物語の糸口を見つけます。ところが、彼女は、オーナーに鍵を預けたまま、自分探しの旅に出てしまいます。彼女が旅先で出会うふたりの女性のエピソードがおもしろいです。原因がなくなって、更に深くなる葛藤……。

気になったのは、彼女がブルーベリーケーキを少しもおいしそうに食べていないこと(うそお、丸1個も食べた日があったの?)。彼がストーカーっぽいこと(これが映画の後味を悪くさせています)。店に現れる彼女と旅先の彼女が別人のように見えること。
「死神の精度」

死を「実行」するか「見送り」するかは、死神の判定に任されています。突然死ななければならない人に死を納得させて見送ることや、死の判定のために、7日間、対象者に寄り添って過ごすこともあります。たくさんいる死神のうちのひとりが、判定のために寄り添うことになった3件のエピソードは、それだけでもなかなかおもしろいものでしたが、全くばらばらな話だと思っていた3件のエピソードが、最初は2話と3話、次に3話と1話、必然的に1話と2話というふうに、徐々につながりっていったことが、映画を観終わっても余韻として残りました。
「明日への遺言」

アメリカ軍による戦後のB級裁判のようすが、ていねいに描かれていました。極限に立たされているにもかかわらず、岡田の正直で温厚なこと。保身ではなく一貫して部下を守ろうとしている姿勢に人柄を感じました。また、彼の弁護士がアメリカ人なのですが、決して国籍に偏らず、日本人の彼に対して人間的に接しているのにも心打たれました。弁護士として当然といえば当然なのですが、戦後の時期を考えると、それは、たいへんなことだったのだろうと思います。被告と弁護人。立場は違っても、人は、いつどんな状況であっても、人はこうあるべきだと教えられた思いがしました。声高に訴えていない分だけ、戦争の不条理が心に響く、品格のある映画でした。

最後には検事までが被告に敬称をつけて呼んでいたことや、何よりも裁判が平等に開かれていたことに安心しました。
「クロサギ」

詐欺には、白サギ(人を騙して金銭を巻き上げる)と赤サギ(異性を騙して心と体を弄ぶ)があるという。クロサギは、赤サギと白サギをえさにする詐欺師のことをいうのだが、この物語の場合は、白サギだけを狙って騙すことを生業としていました。そのかけひきが、なかなか面白かったです。、名優が揃っていたせいか、コミックの映画化にもかっかわらず(こういう言い方は、わたしの偏見かもしれませんが)、物語を深めていました。
「ブラブラバンバン

何の予備知識もなく観たのですが、観はじめてすぐに、コミックの映画化だとわかりました。それほど、主人公の女子高校生のエッチ度は、現実的にはありえない過激さでした。それでも音楽の魅力はうまく引き出されていました。ホルンとトランペットのボレロのコラボ、名門校の吹奏楽の演奏、落ちこぼれ校の投げやり、かつ必死の演奏。下手なチームほど、素敵に輝く。これぞ、青春映画の王道かも。「スイングガールズ」ウオーターボーイズ」「銀色のシーズン」、みんな然り。
「胡同の理髪師」

実在の人物93歳の理髪師チンさんの毎日は、同じように過ぎていきます。古いも新しいもありません。人はいずれは死にます。こういうふうに死にたいという願いがあったとしても、人の一生の終わりはいつ来るかわかりません。いかに死ぬかより、いかに生きるかが大切だとチンさんの暮らしを見ていて感じました。いくつになっても、人にとって必要な存在でいられることは、なんと素晴らしいことでしょう。チンさんが訪ねてくるのを待っている人たちは、単に散髪してもらうためだけではないのです。

ジョリジョリというひげを剃る音とともに、チンさんの静かな生き方が心に残りました。宮澤賢治の「雨にも負けず」をそのまま生きているような人でした。
「ジャンパー」

瞬間移動する力が自分にあることを知った若者が、その才能を利用して、銀行の金庫からお金を奪ったり、世界中を遊びまわったりして、気ままな生活をしていました。ところが、瞬間移動の才能は神だけの特権だと、瞬間移動の才能を持つ者を抹殺するジャンパー狩りの組織に狙われることになるのです。

特殊映像もなかなか優れていて、映画を観ているときは面白かったのですが、不消化感が残りました。というのも、彼の才能はともかく、している行為は犯罪には違いないのです。今後も、恋人とともに、世界中を瞬間移動して、お金を盗み、安易な生活をしていくのだろうと思われる結末に、それはないだろうと……。
「全然大丈夫」

よく笑いました。おかしくって、おかしくって。全然大丈夫じゃない人々から、全然大丈夫だといわれても困るのですが、常識からはみだしたこんな生き方も全然大丈夫なんだと思うことで、深呼吸できる映画です。

お笑い芸人の田中直樹ですが、いい役もらっていました。そういえば、チームバチスタの栄光でも、ある意味で主役でした。
「ぜんぶ、フィデルのせい」30

お父さんは弁護士、お母さんは雑誌記者。弟を含めた裕福な暮らしが一変するのは、両親が共産主義者に変わったからです。引越し先の狭いアパートにいろいろな人たちが出入りするようになり、9歳のアンナには不可解なできごとばかりが、フラッシュのように押し寄せてきます。そのつど、両親は説明してくれるのですが、アンナには、すんなり受け入れることができません。両親の方針で、学校での宗教の授業時間は教室の外に出なければなりません。前の暮らしに戻りたい。こんなことになったのも、みんなフィデル(カストロ)のせいなのです。

1970年代の少女の成長過程とその時代背景を、家族の暮らしぶりを切り取ることで描いた物語です。
「ダージリン急行」

物語は、久々に出会った三兄弟の心の旅なのですが、なんとも象徴的な映画でした。ダージリン急行は、線路があるのに道に迷ったり、飛び乗りもできるし(出来ない人もいる)、車内でいろいろな規則があり、強制下車もさせられます。ダージリン急行は人生そのものだと感じました。殺伐とした風景の中、列車は人々を乗せて、ひたすら走り続けて行きます。

ヴィトンのヴィンテージ物の数々のバッグに、目を奪われます。
「マリア・カラス 最後の恋」

マリア・カラスと海運王オナシスの恋。ふたりの心が通じることができたのは、幼い頃の不遇だった時代の思い出。それぞれのエピソードに、胸が詰まりました。映画を観るが限り、マリアカラスは自分の愛に正直に生きたのですが、オナシスはマリアとの愛を結婚に結びつけませんでした。マリアという存在がありながら、オナシスは自分の事業欲のためジャックーリーヌ・ケネディと結婚します。そんな彼を、マリア・カラスは許しませんでした。

マリアカラスの大らかな歌声は素晴らしかったのですが、演じていた女優さんのイメージとの違和感がありました。
「魔法にかけられて」

おとぎの国のお姫さまが、王子との結婚を反対する王子の継母に人間世界に追いやられるのですが、アニメから実写に変わるという試みが、なんとも楽しい映画でした。姫を救うために王子も後を追ってやってくるのですが、おとぎの世界でならいざしらず、人間世界で見る王子のつまらなく、軽薄なこと。毒りんごをかじってしまった姫を、王子は助けることができるのでしょうか? めでたし、めだたしで終わるのですが、果たしてどんな結末でしょうか……。それは観てのお楽しみです。
「いつか眠りにつくまえに」

人は、いつまでも若く、美しいままではいられません。老いて、やがて最後の日がやってきます。そのとき、切なく思い出すのが、自分が輝いていたころの恋の思い出。あのとき、ああすればよかった。そうすれば人生も変わっていたかも……。主人公は、選択を間違ったのではという思いにかられます。でも、人生には、「もしも」も、「ミステイクな選択」もないのです。自分が生きてきた道、それがすべてで、正しいのです。そう思って人生を閉じたいものです。
「バンテージ・ポイント」

テロ撲滅のサミットにスペインにやってきたアメリカ大統領が狙撃されます。狙撃までの10数分間を、現場にいた8人のそれぞれの視点(バンテージ)に切り変えて、くりかえし再現されます。同じ時間が、違った人の、違った視点で再現されていくうちに、全く無関係に思われていた人につながりが見えてきます。綿密な計画で運ばれた暗殺計画はテロそのもの。多くの人が死傷し、混乱している中、テロ撲滅サミットは引き続き続行されます。それは……。
「チームバチスタの栄光」

優秀な心臓外科の手術チームバチスタが連続3回も手術に失敗して、患者を死亡させてしまいました。ありえないことです。もしや、故意に……。ということは、殺人です。だとしたら、7人のメンバーの中に犯人はいる。テレビカメラも廻っている密室の中で、一体誰が……。なぜ……。更に不思議なことは、子どもの手術はいつも成功していることです。

謎解きの面白さと、竹内結子の美しさに目が離せません。が、テレビの画面でじゅうぶん収まる内容というか、映画を観たという満足感に欠けました。
「潜水服は蝶の夢を見る」

フランスのELLE誌の実存の編集長の身の上に起きた物語です。名誉にも富にも家族や友人、愛人までにも恵まれ人生を謳歌していた42歳のときに、脳梗塞で倒れ、意識は取り戻したものの、左目しか動かすことができないというロックドイン・シンクロドーム(閉じ込め症候群)になりました。その彼が、20万回の瞬きを繰り返した結果、自伝を出版したですが、これは、倒れてから自伝を書き終わるまでの物語です。

意識が正常なだけに、何一つ、自分の思うようにならない状態で日々を送らなければならない苦しさは、絶望的だったことでしょう。それでも、彼は書いたのです。それを支えた人たちの努力も素晴らしかったのですが、もし、彼が、ELLE誌の編集長でなかったら、人はここまで手を貸してくれたのでしょうか……。
「ライラの冒険ー黄金の羅針盤

我々の心は体の中にあるのですが、ライラの時代には、心はダイモンといって、分身としてそばにいる動物の精霊に宿っていて、その動物は、人の言葉を話せるのです。この発想がたいへんおもしろかったです。ライラは、真実を伝える黄金の羅針盤を扱える少女なのですが、これがわたしにはつまらなく思えました。その羅針盤を覗くと、物語の行く手がわかってしまうのです。

三部作にあるそうですが、今回は、さわりといった感じでした。
「ガチボーイ」

主人公は、司法試験も一発で受かる優秀な大学生だったのですが、自転車事故で前頭葉を強打して以来、記憶障害になってしまいました。記憶は一日しか持たず、寝れば忘れてしまうのです。朝、起きると、昨日までの記憶が全くありません。そんな彼が、自分と昨日をつないでいくための努力に感動しました。レスラーとして、危険だとわかっていてもガチンコでぶつかっていくしかできない彼の生き方を、「それは生きている証」と本人にいわれれば、だれもとめることができません。でも、その生き方が、みんなの心を奮い立たせるのです。

「エリザベス ゴールデン・エイジ」

国のために生涯を捧げた女王の強さと、さみしさを痛感しました。一番上に立つものは、いざというととき、何を信じて決断すればいいのでしょうか。占いに頼る。そして、それが凶とでたときは……。風は、希望を捨てないで、強く願い、行動するものの所に吹くのです。それは、「歓喜の歌」でも同じでした。

敵国と戦ってゴールデンエイジを築き上げた初代女王に比べ、昨年上映された「クイーン エリザベス」で描かれていた女王の戦いの相手は、嫁。平和な時代というものは……。考えさせられました。
「歓喜の歌」

市民会館の貸しホールのダブルブッキンで、この物語が始まります。ダブルブッキングは、いうなれば失態です。ないに越したことはありません。でも……。ダブルブッキングのおかげで、それにかかわったすべての人々が、俄然、生き生き行動し始めます。今まで、見えなかったものが見えてくる……。アクシデントが起こったときこそ、人間の価値がわかるのかもしれません。スーパーの鮮魚売り場で働いている女性の歌声を聴いてから、わたしは、笑いながらずっと泣いていました。心地よい涙でした。

原作は、立川志の輔さん
「陰日向に咲く」

最初は無関係で、点的な存在だった登場人物が、物語が進んでいくうちに、本人は知らなかったのですが、実は縁ある人たちで、そのつながりは線になり、やがては形を成して、それぞれ、自分のいるべき場所にたどりついていきます。心は、見えないだけに、そして自分でもうまく操縦できないこともままあるだけに、やっかいなものです。

原作は、お笑い芸人「劇団ひとり」。
「かあべえ」

国賊という言葉が人々を萎縮させ、日々、摘発の目におびえていた昭和15年から20年の物語です。戦争反対を唱えたことが、国を批判し人々を翻弄したとして主人公の父親は、治安維持法の名のもとに投獄され、ひどい扱いを受けることになります。平和を願う信念を変えないかぎり、自由の身にはなれません。父が、そんなことができる人だと母は思っていないようでした。貧しくも、清く、和やかに暮らしていた家族が戦争という魔物に飲み込まれていく様子が、市井の暮らしぶりとともに見事に描かれています。

戦争で死んでいくのは、兵隊だけではありません。思想犯として投獄された父や、自由を愛し、奔放な生き方をしていた吉野のおじ。母親の面倒をみるために絵を捨て、広島に帰っていった父の妹。そして、最後には、父親不在の一家を見守ってくれていた父の教え子(片耳が聞こえなく、泣き虫で、泳げなく、とても人を殺めることなどできない心やさしい人)までもが召集されて……。残された者は、戦後の混乱の中、必死に生き抜きました。そして、当時まだ小学生だった主人公と姉は……。

戦中戦後を生き延びた人たちは、大なり小なり、みんな同じ思いをして生きてきたのだろうと思います。その人たちの今が幸せでありまうようにと願わずにはいられません。
「シルク」

遠い異国に「蚕」の卵を求めて旅立つ夫。一回、二回……。帰ってくるたびに、夫の心に住みついているものが大きくなっていくのを、妻は感じとります。
      あなたの幸せのためなら、ためらわずわたしを忘れて……
日本から届いたとばかり思っていた手紙に秘められていたのは、だれの思いだったのでしょうか。フランスと日本の文化の違い、暮らしぶりに興味はわきます。

がそれにしても、主人公が日本でひきつけられた女性の演技の決め手は手にあると思うのですが、その肝心の手が美しくありませんでした、もっとしなやかで、なまめかしくてもよかったのではと、コマーシャルで吹き替えされる手タレのことを思いました。
「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」

『理髪師が、客のどを掻き切って、そのおかみさんが人肉パイを作る』。そんなセンセーショナルな前宣伝が先行していたのですが、これは、法律が正しく市民の味方をしてくれなかった時代の、実に哀しい物語です。不潔で不正がまかり通っていた街ロンドン。目を覆いたくなるシーンもありますが、ミュージカル仕立てになっているので、少し救われました。誰が彼を悪魔にしたか。しかし、当然、その報いが……。最後の一ひねりが、物語を更に切なくしています。
「エンジェル」

エンジェルは、食料品店の娘であるという自分の現実がいやでなりません。空想の世界での恋愛を小説に書き溜めています。それが出版社の興味を引き、16歳という若さで作家デビューして、たちまち人気作家になるのですが……。

戦争という現実を絵空事としてしか小説に書くことができない彼女に、世間はそう甘くはありませんでした。本は売れなくなります。愛する夫を自分の思い通りにしようと思うのですが、生身の人間は小説の中の人物のように思い通りにはなりません。

それにしても……、エンジェルは天才だったのでしょう。たった16歳で、人をひきつける物語を書けたのですから。彼女は、人の書いた本を読んだことがありません。自分の原稿を、例え句読点であれ直される事を極端に嫌います。プライドと自己顕示欲の塊が転がっていくような一生でした。
「ペルセポリス」

イランのアニメーション映画。イラン・イラク戦争の勃発にいたるまでの1970年から、激動する1990年代に、イランで子ども時代を送った監督自身の少女から大人になる過程を描いた物語です。
「殺しの烙印」

殺し屋たちがナンバーワンを競うというのがストーリーなのですが、ナンバーワンを競うことに意味が見つけられませんでした。この時代、映画の客離れがあったらしく、鈴木清順監督に日活から、「アクションだけではなくエロティシズムも入れろ」という指示があったそうで、美しいヌードではあったもののそのシーンが必要だったとも思えず、さらに芸術的描写にこだわったのか、ストーリーそのものがわかりにくく感じがしました。映画を観終わった後、宍戸錠さんからの説明があり、ふーん、そうなのかと合点がいきました。

京都造形芸術大学の映画祭で観ました。1968年の作品。
「サラエボの花」

12年前、サラエボの町で何が起こったのか。ボスニア紛争を真正面からではなく、一組の母娘にスポットを当てて描いています。母の哀しみ、娘のいらだち……。それが何なのかが、物語が進むに連れて、もやが晴れるようにわかっていきます。母親が、ひたすら隠し続けていた事実を吐露したとき、母娘に強い絆が生まれます。
「onceダブリンの街で」

洗練されていないダブリンという街の佇まいが、なかなかいい雰囲気でした。ダブリンは、アイルランドの首都。本国にあるロンドンは、若者にとって憧れの街のようです。

タイトルに「ONCE」とついているように、一度きりの大切な出会いの物語です。路上ミュージシャンの彼と、その日暮らしの彼女(最初のシーンで、ビッグイッシュを売っていました)が出会うことで、お互いの才能を高めあい、彼は、憧れのロンドンに、ミュージシャンとして旅立っていきます。ラストは物足りなさを感じましたが、それが彼女の生き方なのだと、じゅうぶんにわかりました。彼と彼女の家族についても、ほのぼのと描かれていました。

たっぷり素敵なオリジナルを聴くことができます。
「銀色のシーズン」

ダイナミックなスキーを楽しんでいるうちに、物語の世界に引き込まれていきます。はちゃめちゃな生き方をしているように見える三人の若者にも、それぞれの葛藤があり、氷の教会で結婚式を挙げにやってきた幸せそうな花嫁にも、物語をひっくりかえすような葛藤が……。

「アース」を観たついでにと、期待せずに観ただけに得したような気分です。「協力 白馬村」とありました。20代から30代にかけては、毎年シーズンには必ず滑りに行っていたところです。娘たちが生まれてもしばらくは、娘たちを背負いながら滑っていたのですが、もう長い間、行っていません。
「アース」

46億年前に小惑星が地球に追突した際に、地軸がわずかに傾いた。この偶然が、地球に季節をもたらせ、生物が生きる唯一の惑星になった……そうです。画面を観ていて、地球ってなんて美しい星なのだろうと自然の素晴らしさに感動します。北極に始まり南極に終わる。人間にとって過酷な大自然の中で、ターゲットとする動物を追い、よくこれだけの撮影ができたものだと、撮影隊の執念にも似た思いと、かけた日数と人数の多さを思うとき、感謝せずにいられません。

厳しい自然と戦いつつ命をつないでいく動物たちの生き様は、感動です。それを伝える渡辺謙の語りは、やさしく穏やかで、映像ともに一言一句が、心に沁みていくようでした。「今なら間に合う」。謙さんはそう言っていました。
「ぼくがいない場所」

チラシにこう書かれています。「ポーランドから世界に投げかける、現代社会の子どもたちの心の孤独を描いた衝撃作」。ということは、これがポーランドの現実なのでしょうか。保護施設から逃げ出してきたものの、母親がいながら家に帰ることができない少年は、廃船で暮らし始めます。少年の垢に汚れた爪がなんとも痛々しく、自分を持っているために、だんだん生き辛くしてなっていく少年に、胸がいっぱいになりました。

『ぼくがいない場所』というより、『いる場所がないぼく』、または『ぼくがいられない場所』といったストーリーでした。ラストが最初のシーンに戻るのですが、そこに重きを置くとすると、『Tam Jestem』という元のタイトルか、『ぼくは、ぼく』の方がぴったりです。
「風の外側」

親が資産家で、夢に向かって生きる女学生と、夢などもったことがないチンピラ以上やくざ未満の青年がふとしたことで出会います。せつないラブロマンスかと思って観ていたのですが、韓国籍問題をとりあげている深い作品でした。

奥田瑛二の原作・脚本・監督(出演も)ですが、奥さんも出演していました。何よりも、主役の女学生が奥さんの安藤加津に似ていると思っていたら、おふたりの実娘だそうです。歌が吹き替えというのが納得できませんでした。
「いのちの食べかた」

セリフも語りも入っていません。たんたんと、牛・豚・鳥・魚などの命を育てる飼育場と、それを屠殺・解体する現場、農作物の栽培・収穫・出荷などが次々映されていきます。食べるということは、「命」をもらっているのだということはわかっていたのですが、子豚やひよこが、育っている過程で大事に扱われていたのならまだしも、生き物として扱われていません。日本と全く違います。何度も、席を立ちたくなりました。どの現場で働いている人たちも、まるでロボットのように無表情でした。感情移入などしていては、身がもたない厳しい現場なのでしょう。

食べ物は、ほんとうに必要なものだけを、感謝して「いただく」という心を忘れてはいけません。飽食は罪です。
「茶々 生涯の貴妃」

戦国の世に生まれた女でありながら、しっかりした意思を持って生き抜いた強い茶々が描かれていました。が、秀吉が、「おまえしかいない」と茶々にいったそうなのですが、映画では、ただ気が強い女性としか描かれていませんでした。家康も茶々を江戸城に招き入れたいと考えていたようで、それは単に、彼女を権力の象徴として征服したかっただけなのでしょうか。彼女には、よほど魅力があったのではないでしょうか……。そのあたりをもっと引き出して描いてほしかったです。妹の小督については、人となりがよく描かれていました。

徳川家康が大阪城を攻めてきたときに、馬にまたがって味方の陣を視察する茶々の姿を見て、元宝塚スターの和央ようかが茶々役に選ばれたことが納得できました。
「スマイル 聖夜の奇跡」

アイスホッケーのチーム「スマイラーズ」はめちゃ弱い。しかも交代メンバーがいないという悪条件。試合で勝ったことなんか一度もない。そんなチームの監督をすることになったのは、アイスホッケーの経験などない修平だった。ただ恋人と結婚したいというだけで引き受けた監督だったのだが……。経験がないからこそ、子どもたちを信じ、奇抜な作戦をたて、チームを奇跡へと導くことが出来たのかもしれません。といっても、現実にはありえないことです。大人の目線で観てはいけません。子どもの心になって楽しめば、感動と笑いはあなたのものです。

修平を演じたのが森山未来という俳優さんだったので、わたしは奇跡をすんなり信じ、共に喜ぶことができたのかなと思います。
「ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記」

リンカーンが暗殺されたという歴史上の事実と、黄金の町があったという都市伝説をつなげて、これだけの物語ができるものかと、その想像力(創作力)に感銘しました。

物語の前半は謎解き。後半は冒険になっていて(「グーニーズ」を思い出しました)、一粒で二度おいしいというか、倍楽しめる映画でした。
「マリと子犬の物語」

幼さがまだ残っている彩役の少女と、マリ役の犬の演技が素晴らしかったです。山古志村の自然の美しさと暮らしぶりの豊かさ。それが一瞬にして壊されてしまう自然災害の恐ろしさに、無念を感じつつも、生きるということは、人の力ではどうにもならない不条理を受け入れなければならない時もあるのだと思い知りました。ただ、どんな場合でも希望を捨ててはいけないということを、犬が教しえてくれました。

冬休みで子どもたちがたくさん観に来ていましたが、地震のシーンで泣き出して、親といっしょに外に出る子どももいました。ただ、かわいいだけの映画ではないというか、おとなにも観ごたえがありました。